くちなしの花には忘れられぬ思い出がある

 毎月の4日か5日に私は女房と一緒に菩提寺にお墓参りに行くことにしている。4日は養母、5日は養父の月命日だからだ。
 朝食を食べ終わって午前9時ごろになると、夜明けに土砂降りだった雨も小雨となったので、女房の軽自動車に乗って出掛けて行った。菩提寺は車で、7、8分のところにある。
 いつもなら、お墓参りに来ている何組かの家族連れに出会うのに、さすがに今日は人っ子ひとり、境内にも墓地にもその姿は見えない。
画像 お参りも終えて、鐘つき堂まで来るとその周りに小雨に濡れて、ひっそりとくちなしが咲いている。そっと顔を近づけて匂いを嗅いでみたが、くちなし特有の甘い匂いが微かにしか漂ってこない。たぶん、このところの雨のせいなのであろうか。
 私が子供の頃を過ごした古い家のL字型の生垣には、くちなしの木と沈丁花の木が植えられていた。そして、隣りの家との境目辺りに金木犀が植えられていた。これらの木は、花を付ける頃になると周囲に向かってやさしい匂いを放しつつ、季節を運んでくる。
 私は会社をRetireするまで、余り花の名前を覚える気がなかったが、それらの木の名前だけは小さい頃から知っていた。私にとって、それらの花の匂いは長い付き合いであり、しかも常に自分の身近にあったからだ。
 中でも、くちなしの花にはいろいろな思い出がある。
 私が出た高校の中庭には多くのくちなしの木が植えられていたし、初恋の人と一緒だった文芸部の機関紙の名前も「くちなし」であった。
 ふと思い出したことがあった。
 数年前に高校の新聞部のOB会を校内で行った友だちが、<今では、刈谷高校文芸部の機関誌「くちなし」ではなく、「くすのき」と変更されて、しかも生徒が自主的に機関誌を作ってはおらず、先生が作っている>と知らせてくれたことがあった。しかも、くちなしの生垣は校内のどこを探しても見つからなかったということだった。
 確かに文芸部の機関紙の名前が、10年ほどの間で「山梔子」「クチナシ」「くちなし」といろいろ表記を変えたことがあったり、クラブ名も文芸部だったり、文学研究クラブだったりしたことはあっても、くちなしという機関紙のタイトルを変えようと動きはまったくなかった。それが文芸部の伝統を守ることになると思っていたからだ。
 そう言えば、中学3年のときの友だちが「グループ写真展」を開くと言うので、他の友だちと2人で観賞に行って、別のグループで来ていた中学3年のときの同級生2人とフロアの椅子に座って昔話をしていた折、私が出た高校のサッカー部のユニフォームのことが話題になった。今もなお、旧制中学のときの白地に赤ダスキというデザインが受け継がれていると言うのだ。
 確かに、昭和29年(1977)の第9回国民体育大会 と昭和30年(1978)の第10回国民体育大会に連続優勝したときのユニフォームが、白地に赤ダスキだったこともあって、50年前の私たちの時代にもサッカー部のユニフォームは白地に赤ダスキであった。そうした伝統が今に至るまで引き継がれていることに私は吃驚した。
 それなのに、同じように伝統のある文芸部の機関紙のタイトルが何故変えられたのであろうか。
 私が文芸部の部長をしていた頃、県下の公立高校の中で、文芸部の機関紙を生徒自らの手で継続的に発行して、内容もそれなりに充実しているなど、幾つかの項目の評価点で第3位になったことがあった。確か、第1位は旭ヶ丘高校で、第2位が菊里高校だったと記憶している。
 今にして思えば、私が新聞部にもっとアピールしておけばと悔やまれるが、スポーツと違って参考程度のそうした記録は、いずれ時が経てば忘れられる運命にあり、仕方のないことと割り切れるが、先生が機関紙を作っているというのは、いかにも残念という他はない。

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