それでも、私の中に犬を飼おうという気持が生まれることはない

 私は現在、男性10人と女性4人のメンバーで、市の公園で働いている。
 男性10人の勤務は午前と午後に分けられており、1日の勤務時間は午前も午後も4.5時間と決められている。
 ただ午前の勤務の中で、働く時間は4.5時間と変わりはないが、出勤が午前8時で、通常よりも30分早い勤務シフトがある。
 今日、私はその勤務シフトの日であり、午前7時15分には公園の駐車場に到着した。
 すると公園内の道を犬と一緒に散歩している4、5人の人と嫌でも交錯する。
 公園周辺には、意外なほど愛犬家が多く住んでおり、さまざまな大きさの犬がいたり、私の知らない犬種が多かったりして、吃驚する。
 また犬にさまざまな衣装を着せている人もいる。
 今朝、出会った女性が連れていた子犬は、最高気温が5月並みになるというのに、派手な大きなリボンを付けていたし、腹帯のようなものもしていた。おそらく、犬を目に入れても痛くないほど、かわいがっている人だと思われる。
 ただ、愛犬家の人には悪いが、犬にとってはリボンや腹帯はちょっとやり過ぎで、私には犬にとっては有難迷惑のような気がしてくる。
 先だってのテレビで、タイの象が観光客の気を引くためにジャイアント・パンダのように白と黒に塗りつぶされている映像を見ていて、人間の都合でそんなことまでして、本当にいいのかと疑念を持ったことがあった。ふとリボンや腹帯をさせられた子犬を見て、そんなことが頭をよぎっていった。
 犬という動物は太古の昔から人間と寄り添って生きてきた動物で、ハナッから象と比較すること自体、間違いなのかも知れない。

 私も小学4年生の頃から大学3年のときまで、雑種であったが、父母にたのんで犬を飼ってもらっていた。
 最初の犬は雄で<太郎>と名付けた。そして<太郎>が死んだあと、今度は雌犬だったために<花子>と名付け、そのあとの犬はすべて雌犬だったので、<夢子><空子>と私が勝手に名付けてしまった。
 いかにも<花子><夢子><空子>と名付けたのには意味がありそうだが、何のことはない、その当時流行っていた佐良直美さんの「世界は二人のために」の歌詞の一部をちょっとお借りしただけのことである。
 そして、私が大学3年のとき、養父が胃癌に罹り、家計が火の車となり犬を飼うほどの余裕がなくなってしまった。
 その後、何10年かが経ち、私は一丁前に家庭を持ったが、犬を飼おうと思えばできたのに、今に至るまで犬を飼うことはしなかった。
 そのことは、生活のために背中を押されるように自分がサラリーマンになったことに大いに関係がある。
 飼い主は犬を飼って「お手」とか「お預け」とかの芸を仕込む。いわれた通りにやれば、頭を撫でられ、ご馳走にあずかれる。
 そして、犬は少しずつ芸を覚えていく。そのことが本当に犬にとって幸せなことなのであろうか。そんな疑念が私の中で、大きくなっていった。
 そもそも、ペットはできるだけ自由にしておいてやるのが、いちばんいい方法で、動物たちには幸せなことではないだろうか。私はサラリーマンになってから、そんなふうに決めつけるようになった。
 私は大学を中退してサラリーマンとなったが、「お手」とか「お預け」の芸を繰り返し仕込まれている犬たちの姿を見て、上司の機嫌を伺いながら、自分を評価してもらいたくて擦り寄っていく己の姿を重ねていた。
 1度、芸を仕込まれている犬の行動の中に自分の姿を投影してしまった私には、その後、犬を飼う余裕ができても、もう2度と犬を飼えなくなってしまっていた。
 だが、サラリーマンをRetireし、公園で働くようになった今、公園で家族のように犬をかわいがっている人たちを見ると、ときどき子供の頃を思い出して、羨ましくなることがある。
 それでも、私の中に犬を飼おうという気持が生まれることはない。

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