どの本も古くからの友人のようで、別れがたい

 何年前か忘れたが、中日新聞の朝刊コラム「中日春秋」に次のような文章が載ったことがある。
 <本棚が満杯になると、やむを得ず本の整理を始めるのだが、これがなかなか難しい。どの本も古くからの友人のようで、別れがたい。
 久々の出会いに、つい手に取って読み始めてしまう本もある。大げさかもしれないが、何やら運命を感じるのだ。新しい発見、喜びがあるかもしれない。かくして作業は一向に進まないのである。>
 私も本を整理し出しては、同じように行動をしてしまっている。
 私の場合は1階と2階にある本棚が満杯となると、その本棚の前に同居人の迷惑も考えずに無造作に本を積んでいって、部屋のスペースをどんどん狭めていく。
 すると女房が、どこからかダンボール箱をもらってきて、その積んである本を、ただただランダムに詰め込んでいく。
 従って、もう一度本の内容を確認したいと思っても、目当ての本がどこにあるのか、その在処がまったく分らなくなっている。悲しいが、それが45年間続けてきた我が家の本に関しての整理整頓ぶりである。
 15年ぶりにその気になって本を整理しだしたが、「中日春秋」の作者と同じで、何しろ、蔵書は高校時代から始まっており、<どの本も古くからの友人のようで、別れがたく>なり、思惑通りに整理が進まない。
 自分の76年の来し方をふと振り返ってみると、どこかで大事な忘れ物をしなかっただろうかと、一度立ち止まってしまうとその猜疑心がどんどん膨らんでいく。本に付着した過去の時代の手垢の懐かしさも手伝ってか、どうしても、そのまま通り過ぎていけなくなってしまっている。
 先だっても整理し始めると、懐かしい友人とも言える3冊の本が無造作に詰め込まれたダンボールの中から現れた。
 佐藤信夫氏が著した「レトリック感覚(1978)」「レトリック認識(1981)」「レトリックを少々(1985)」である。
 佐藤信夫氏はその「レトリック感覚(1978)」という本の中で、作家が、多かれ少なかれ何食わぬ顔をして、自分好みの表現形式(レトリック)を駆使し、さまざまな文章を綴っていることを多くの例文を引用して分りやすく解説してくれている。
 私は、その「レトリック感覚(1978)」を読んだことで、目からウロコが剥げ落ちるように、本の内容ばかりでなく、その文体についても大いに興味を持つようになったことを思い出していた。
 言い方を変えれば、私はこの本を読んで、作家にはひとり一人、独自なレトリックを持っていて、それが作家の文体の骨子になっていることを悟った。
 そう言えば、作家の井上ひさし氏がこの「レトリック感覚」という本について、本文に記載されているレトリックのテクニック(直喩、隠喩、換喩、提喩、列叙法、緩叙法)になぞって、次のように感想を述べている。
 <この明快でたのしい書物を直喩でたとえるならば、「上出来の推理小説のようにおもしろく」、隠喩でいえば内容の深さは「底なし沼だ」と言い切ってよい。また換喩ならば「読者に文学を志す鬼があれば、この本はその鬼の金棒となるだろう」はずで、提喩では「お買得」だ。誇張法では「こういう種類の本に乏しかったこの国の文化界にとってこの本の出版は、彼の月世界着陸にも匹敵する快挙」であり、列叙法では、「一読感嘆、再読感動、三読卒倒・・・・・・」であり、緩叙法では「この本はすばらしくないわけでは決してない」のである。
 はやりことばで、そしてふたたび隠喩でいえば「この本こそ空前の知的武器」である。>
 さすがに井上ひさし氏である。ユーモアに富んだ比喩で、この「レトリック感覚」という本の内容を見事に言い表せている。
 つまり、それは作家の「レトリック感覚」はさまざまだと指摘するものであり、読者の方も自分の「レトリック感覚」と照らし合わせて、読むべき作品を決めていると言ってもいいようである。

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