私はYouTubeで、韓国の歌手李成愛さんの『大田ブルース』をときどき聴いている

 私はYouTubeで、韓国の歌手李成愛さんの『大田ブルース』をときどき聴いている。
 『大田ブルース』が、今でも私の記憶に強烈に残っているのには。あるきっかけがあったからである。
 私が初めて韓国を訪れたのは全斗煥政権の1986年で、私の厄年の年であった。
 私が三菱重工の冷熱枇杷島工場の営業を任されてから、5年が経ったころだった。
 枇杷島工場の主要製品は「業務用空調機(業務用エアコン)」「住宅用空調機(家庭用エアコン)」「車両用空調機(カーエアコン)」「応用冷機(産業用冷熱機器)」「輸送用冷凍機(冷凍ユニット)」「温水ヒートポンプ」で、私が勤めていた会社は主にカーエアコン部品を受注していた。
 売上は年間1億2千万ほどであった。
 三菱重工のサプライヤー会社50社ほどあり、その会社の代表者で構成された「柏会」という組織がり、その年間行事の中に関連会社の工場見学があった。
 1986年はその工場見学が三菱重工と業務提携していた韓国の財閥斗山グループの「斗山機械(現在は斗山重工業)」と金星グループ(現在はLGグループ)の「金星電線」という会社と決められ、私のその一員として、三菱重工の工場長と資材課の係長を含めた総勢50名で、韓国を訪問した。
 「斗山機械」では建設機械用部品の製造ラインを見て、「金星電線」では食器洗浄機の稼働状況を見学した記憶がある。両社とも工場見学コースを案内してくれる主任は日本語ではなく、英語であった。
 私は身振り手振りと片言の英語で、見学者を代表して、幾つか質問した覚えがある。
 両社とも工場内の管理事務所の壁に貼られていたのは、小集団活動の内容を記した掲示物であった。当時の日本の製造現場でよくそうした状況を見かけたが、韓国でも日本と同様な活動がなされていたことには驚かされた。
 第1日目の「斗山機械」の工場見学が終わってから、全員で食事会が催された。
 私はその食事会が終了してから、仲間数人と一緒にソウル郊外のナイトクラブに飲みに行った。そのとき、ステージで韓国の歌手が歌う『大田ブルース』を聞いた。何とも郷愁溢れる歌声に私はたちまち魅了されてしまった。
 翌日、私は50代の女性ガイドに『大田ブルース』の歌詞の内容を尋ねた。男女の別れを歌った歌謡曲ということだった。
 深夜0時50分大田駅発の列車は、当時、ソウルを出て大田駅で釜山行きと切り離される木浦行きの列車で、その女性バスガイドによれば『大田ブルース』の歌詞は愛し合う2人の恋を引き裂く状況をその列車になぞられて、作られたようである。
 1979年に「懐メロ」となっていたこの曲をチョー・ヨンピルがカバーし、韓国で大ヒットを飛ばし、日本でも何人もの歌手によって歌われるようになった。
 だが、私は1986年の工場見学のときに、はじめてこの曲を聞いたのであった。
 私は帰国後、この『大田ブルース』の韓国語の歌詞を必死で覚えた。
 それから、1992年に三菱重工の照会で、現代グループ会長の弟が率いるHalla グループの「萬都機械」という会社から、ダクタイル鋳鉄を購入するようになってから、私はときどき韓国を訪問するようになった。
 その折、三菱重工の担当者とソウルのカラオケステージのあるナイトクラブに行ったことがあった。客のほとんどは韓国の人で、店の名は日本語だった気がする。
 私はそのとき、司会者に指名されたのでメモ紙に「大田ブルース」と日本語で書いて、「テジョンブルース」と言いながら、手渡した。
 私が韓国語で、「大田ブルース」を歌い出すと客の好奇心に満ちた眼がこちらに向けられ、ひそひそ話があちこちから聞こえてきた。そして私が歌い終えると、いっせいに拍手が起こった。
 おそらく、私の韓国語の発音はあやしいものだったに違いないが、すでに日本語訳で歌われていた『大田ブルース』を現地で、しかも韓国語で歌ったことが、珍しかったのかも知れない。
 それ以来、『大田ブルース』は私にとって、忘れられない韓国歌謡となった。

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