笑いが起こらないのは、きっとそこが住みにくい社会だからに違いない

 今日もまた、過去に書いたブログを開いて、誤字脱字や「てにをは」をチェックしていた。まだ、その数は80までいっていない。
 今日、読んだブログの中に、次のような内容のものがあった。
 <明石家さんまさんが、「恋はいつも若葉マーク」と言うが、私には、この言葉が今ほど身に沁みて迫ってくることはない。
 真室川音頭に次のような歌詞がある。
  【あの時会わねば、ただの人 <コリャ> 会うても惚れなきゃ、ただの人】 
  【惚れても添わなきゃ、ただの人 <コリャ> 添うても別れりゃ、ただの人】  
 私はこれまで初恋の人T.Tも、大学時代に夏の集中講義で知り合ったM.Sも、【会うて惚れても】相手に自分の気持が通じず、ただの人と終わってしまった。
 今も惚れている人はいるが、惚れても添えずに、ただの人になりたくないと思い悩んでいる。だが、生来の不器用さゆえに相手との距離を詰めることができず、互いの気持を上手く結べないでいる。幾つになっても、恋のライセンスを持たない悲しさである。
 私の場合、女性相手が違ってしまうと、恋をどんなふうに運転していいか分らなくなる。私にとって、まさに「恋はいつも若葉マーク」なのである。学習しようにも、私の傍らには恋の運転に関する教科書はない。> 
 今は、明石家さんまさんは「恋はいつも若葉マーク」というフレーズは使っていないようである。余り反応がかんばしくなかったからであろうか。
 私は自他ともに認める惚れっぽい性格だが、女性に対する対応はへたくそで、それこそ「恋はいつも若葉マーク」で、恋に慣れることはなかった。
 恥ずかしいが、70歳を超えた今でも、自分の好みのタイプの女性が現われると、さすがに肉欲的な目で見ることはなくなったが、常に一期一会の気持になって胸をときめかしている。男って、幾つになっても、女性が気になって仕方がない生き物のようである。
 最近、私はテレビに余り関心がなくなったが、それでも明石家さんまさんの番組だけは、DVD録画して、よく観ている。
 明石家さんまさんのお笑い芸人としての生き方、そしてさまざまな名言に対して、【我が意を得たり】と思うことが多いからだ。
 このブログにも「恋はいつも若葉マーク」のほかにも「生きてるだけで、まるもうけ」とか「人間生まれてきた時は裸。死ぬ時にパンツ一つはいてたら、勝ちやないか」などを引用して、何度も記事を書いている。
 先だっても、ある番組で「お笑いの人間は、人や金を利用して裕福な生活を送ると笑いが半減する。だから、お笑い芸人というのはスーパーに行って、大根の値段を知っておかなきゃならない商売なんや。そうでなきゃ、本当の笑いを取ることはできない」と自分の笑いの理論を展開していた。そして、自分のギャラがどれだけ振り込まれているか、通帳を見たことがないとも言っていた。
 自分の笑いの原点がどこにあるのか、充分に知り尽くしている。私はその姿勢が好きなのだ。
 もう何年ほど前になるのであろうか。藤田まことさんが必殺シリーズで復活し、またそのあとのシリーズも当たり、再び人気者になった。その後、藤田さんは庶民派の刑事を演じるようになったにも拘わらず、意気揚々と愛車のリンカーン・タウンカーで撮影所入りするようになった。
 そのことで周囲の顰蹙を大いに買ったことで、やっと自分は庶民派で復活したことを気付かされ、国産車に買い替えたというエピソードを、藤田さん本人がテレビで話しているのを聞いたことがある。
 庶民の手の届かないリンカーン・タウンカーを乗り回していては、どうしても庶民感覚とのズレがどこかに生じてくる。それが演技にも反映される。藤田さんはそれを悟ったのである。
 いずれにしても、明石家さんまさんには今のままのスタイルで、これからもテレビに出続けてほしいものだ。
 日々の生活の中に笑いが起こらないのは、きっとそこが住みにくい社会だということにはならないだろうか。

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