ヒカレものの呟き

アクセスカウンタ

zoom RSS 2007年以降、香港を訪れようという気持がなくなった

<<   作成日時 : 2017/07/10 20:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 今日の中日新聞の社説は【強権に声上げ戦う香港 週のはじめに考える】という見出しの論調であった。
  内容は次のようである。
 <英国から中国への香港返還から二十年です。「高度な自治」は形骸化していますが、民主を求めて声を上げ、戦い続ける若者たちに希望を見いだします。
 二〇一四年秋の香港の雨傘運動を覚えていますか。行政長官選の民主化を求め、香港中枢を埋め尽くしたおびただしい黄色の傘−。抵抗のシンボルでした。
   (中略)
 民主派政党「香港衆志(デモシスト)」の周庭常務委員と黄之鋒秘書長が来日し六月中旬、東京の日本記者クラブで会見しました。二人とも一九九七年の香港返還の前年に生まれた、わずか二十歳の若き民主活動家です。
 雨傘運動の現場で十代のリーダーとして活躍した黄さんは「香港人の権利は侵害され、中国の国際公約であるはずの『一国二制度』は『一国一・五制度』にされてしまった」と訴えました。>
 そう言えば、6月26日、テレビ東京のBS番組「未来世紀ジパング」の中で「香港返還から20年"民主の女神"が再び対決...中国の巨大権力!」というタイトルのドキュメントが放映されていた。その内容は「雨傘運動」のリーダーだった“10代の女神”の3年間にも及ぶ密着取材であった。
 今年の7月1日、「東洋の真珠」と呼ばれた香港は、イギリスから中国に返還されて20年を迎えた。
 私は、中学クラス会などで、会社をRetireしたら、香港に永住したいという話をして、クラスメートの失笑を買ったことがある。やはり、クラスメートたちの香港の印象は、私が憧れるほどの都市ではないように思っていたようだった。
 私が勤めていた会社は毎年、中堅社員2人を日本生産性本部が主催する洋上研修(生産性の船)に送り出していた。寄港地はアジアの都市で、当然、香港も含まれていた。
 生産性の船から帰ると食堂に社員全員が集められ、研修を終えた中堅社員は洋上セミナの内容や各アジアの都市の印象を報告することになっていた。
 おしなべて、そこで語られる香港は危険な街で、裏通りを歩くことを固く禁じられていたと言い、香港の印象は余り語られることはなかった。
 そうしたこともあり、香港に対していかがわしい印象を持っていたが、それを払拭できたのは、結婚30周年を記念して、4泊5日の香港旅行をしたのがきっかけであった。
 そのとき、九龍半島や香港島を自由に散策したことで、本当の自由を味わった感じがしたのである。
 だが、1997年に大陸への返還が決まってから、香港は恐ろしい勢いで変貌していった。
 「雨傘運動」のリーダーだった“10代の女神”は香港の良き時代を知らないはずである。その彼女が「香港人の権利は侵害されている」と感じるのは、20年前の返還当時とは、香港がよほど変貌してしまったという証しなのかも知れない。
画像  私が、2012年、このブログに香港を訪れたときのことについて書いた記事がある。内容は次のようだ。
 <私は仕事を含めて、これまでに20回近く、香港を訪れている。
 確か、初めて香港に行ったのは1994年だった。そのときに初めて触れた香港人のバイタリティーや柔軟性に富んだ考え方、誰に対しても声高に自分の主張を繰り返す姿、ときには宗教・政治からも解き放たれた行動を目の当たりにして、本当の自由人とはこういう人たちを言うのだと思ったものだ。
 私は会社をRetireしたら、物価の問題もあって香港に永住するのは無理だとしても、少なくても年に数回は香港にやって来て、気持をリフレッシュしたいものだと思っていた。
 ところが、1997年に返還が決まってから、多くの資産家は大陸政府の「一国二制度」を信用せず、オーストラリアやアメリカ本土に移住していったり、長年香港に在住していた英連邦の人たちも我先に本国に帰還していったりと、変な動きが目立つようになった。
 そして、日本からの観光客も返還前には230万人の人が訪れていたのに、返還後は160万人に激減した。
 私は返還後の1998年のクリスマス休暇のときに香港を訪れて、以前から面識のあった商社の人に「一国二制度」について訊ねたことがあった。
 確かに、返還されてからまだ1年を過ぎたところなので、さほどの変化を感じないと言っていたが、大陸政府の官憲が市民に紛れて潜んでいたり、警備隊が表だって香港市民の目に触れない場所で待機していたりしているとの噂を耳にすると、何かしら大陸政府の無言の圧力を感じてしまうと本音に近い話をしてくれた。
 その後も年に1回の割り合いで香港に行ったが、徐々に香港の雰囲気が変化していった。
 その変化の一つは白人の働く姿をまったく見掛けなくなったことだ。1994年当時、私がホテル・シャングリラに泊まったときは、ベルボーイは白人だったし、レストランのウェイターも白人だった。シャティン競馬場の外国人専用のビジタールームのバイキングでは、清潔そうなタキシードを着た白人の男性がもてなしてくれた。
 返還後の1998年には、そうした場所で白人を見ることはなくなった。そして、白人を見なくなるのと並行してロイヤルとかクイーンとか、植民地時代の大英帝国を連想させる文字がホテルやミュージアム、公園や競馬場から削除されていった。
 返還前、九龍半島や香港島のショッピング・モールでは、私の片言の英語でも十分にコミュニケーションが計れたのに、年ごとに英語を話す人が少なくなり、5年前、私たち夫婦と娘夫婦、そして孫娘2人で、香港のディズニーランドに行ったときには、そこで働く香港人の半分以上は英語で話し掛けても通じなかった。
 じわじわと、しかも確実に香港は大陸政府に侵蝕され続けているのは事実のようである。>
 2007年以降、私の中に香港を訪れようという気持はなくなってしまっている。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2007年以降、香港を訪れようという気持がなくなった  ヒカレものの呟き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる