地域自治区とコミュニティの事務所は、大府駅東の旧市街地にある

 地域自治区の事務所や公民館内にあるコミュニティ推進協議会の事務所に行くときには、市の旧商店街を通っていく。
 2つの事務所はJR大府駅の東側の旧市街地にある。
 私の住んでいる市はJR東海道線の線路によって、見事と言っていいほど、きれいに東西に分けられている。
 私の小学生時代には、その東海道線の線路を横切って、市の東から西に移動しようとすると、どうしても開かずの踏切で2、30分の時間を待たなければならなかった。
 開かずの踏切となっていたのは、JR東海道線と武豊線、そして衣浦臨海鉄道と南方貨物線【東海道本線(大府駅 - 名古屋駅間)の複々線化として建設していた貨物支線】が絶えず通過しており、なかなか踏切の遮断機が上がらなかったからである。
 また当時は、大府駅の東から西側に抜ける跨線橋も造られておらず、そのために東側に比べ、西側は開発が遅れてしまった。
 そのために大府駅の東側は身動きが取れないほどに詰まって建てられている家屋のせいで、道路整備も造成もままならず、再開発が手つかずの状態で今日に至っている。
 だが、それに比べて西側は家屋も余り建っておらず、区画整理は順調に進み、大府市は名古屋に近いこともあって、今も移り住む人が増えている。

 話はその開かずの踏切に戻るが、踏切のある道路は西側に抜けるメイン道路で、その両脇には多くの商店が立ち並んでいた。いわば、そこが市の唯一の繁華街であった。
 やがて、そのメイン道路を少し外れたところに道路が整備され、東海道線を跨ぐ陸橋が作られた。それとともに軒を並べていた商店街の通りは寂れていき、しばらくして閉店する店が続出した。
 それに伴って、商店街の中にあった警察署は隣の東海警察署に吸収され、保健所は半田市の保健所に組み込まれ、法務省地方局も地方裁判所も東海市に移転していった。
 と同時に、駅の東側区域は寂れる一方となった。
 あれから65年近く経った今でも、その区域には古い家並みが残り、空き家状態の家も多く、依然として寂れたままになっている。
 私はそこを通るたびに、ここにはお好み焼き屋、あそこには洋品店、その隣は大衆食道に饅頭屋、その向かいには和服の店があったなどと思い出している。
 確か、小学生のころ、警察署の隣に電気店があり、1953年にテレビが社会に登場したが、まだ一般家庭には普及されておらず、大相撲中継とかプロレス中継があったときには、その電気店の店主がテレビを見やすい置き場所に持ち出して、近所の人たちに見せてくれていた。
 とくに夏などは、涼みがてらに大人の人も大勢集まってきたが、まだ小学生だった私は、電気店の横に立っていた火の見やぐらに上って、鉄製の桁にしがみついて観ていたものである。今ではその辺りは公民館の駐車場となり、つい最近まであった古びた市場が潰されて、月極駐車場になっている。
 記憶を辿ってみると、大相撲は 鏡里、東富士、羽黒山、千代ノ山、吉葉山がいた時代で、プロレスは力道山や木村政彦、外人ではシャープ兄弟が活躍していた。
 私はその頃からプロレスファンで、つい最近までCSでプロレス番組を契約していたぐらいで、そのプロレスの長い歴史を飽きずに見つめてきたプロレスマニアの一人である。
 プロレスの試合には筋書きがあって、一種のやらせのショーではないかと揶揄されても、私は夢中になって試合にのめり込んでいた。
 サラリーマン現役時代から、プロレス本を何冊も読んでいた。
 今でも記憶に残っているのは、別冊宝島編集部の『「別冊宝島」が報じたプロレス暗黒史』であり、もう1冊は瑞佐富郎と泣けるプロレス委員会の『泣けるプロレスベストマッチ』である。
 『「別冊宝島」が報じたプロレス暗黒史』は主要なプロレス団体が経験した「身売り」「買収」「分裂」など業界の栄枯盛衰を綴った内容であり、『泣けるプロレスベストマッチ』は副題に「心優しきレスラーたちの32のエピソード」とあるように、表には出てこないプロレスラーの知られざる素顔を綴った本である。
 不思議なものである。私はつい最近のことはよく忘れるが、プロレス中継を観るためによじ上った火の見やぐらの鉄枠の冷たさは未だに記憶に残っている。

"地域自治区とコミュニティの事務所は、大府駅東の旧市街地にある" へのコメントを書く

お名前[必須入力]
ホームページアドレス
コメント[必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。