私は2人のスマホでのやり取りをじっと聞いていた

 今から、2年ほど前になるだろうか。
 女房が囁くような声で「ちょっとお父さんに連れて行ってもらいたいところがあるんだけど」と言ってきたことがある。
 さらに「はっきりと場所が分からないので、捜しながら行かなきゃならないんだけど、付き合ってくれる?」と念を押してくる。
 女房の行きたいところは、どうも知多半島の半田市にあるらしい。
 私は半田市の自動車部品製造会社で25年間も働いていたので、町名さえ分かれば、女房の行きたい場所を見つけるのは、そんなに難しくない。
 どうも、そこは生鮮食品や野菜の安売りをやっている店らしく、差し出されたチラシを見て、私は大体の見当が付いた。
 方向としては、私が定年退職した会社のある方面だと分かった。

 私は社長の息子が専務取締役になってから、会社の目指す方向性が自分の考えと異なり、私は反発ばかりしていて、最後には閑職に追いやられてしまった。
 結局、60歳の定年後の2年間は会社にとどまり、営業担当の28年間で、全面的に私に協力してくれた下請け会社が赤字体質に陥っていたことから、三菱重工からその下請け会社に見合った仕事の受注に奔走した。
 28年間の営業担当が功を奏し、新規の受注品を下請け会社に発注し続け、黒字体質になるのを見届けてから、私は会社をRetireした。
 そのあとは専務取締役との軋轢から、私は2度とRetireした会社の方向には行きたくないと思っていた。
 だが、女房の頼みならば、自分の都合ばかりを優先する訳にもいかず、私は女房の要望を受け入れることにした。
 私が会社をRetireしてから、10数年になっていたが、その間、1度も会社の近くにすら行ったことがない。
 久しぶりに会社の前を通ったとき、どんな気持が沸いてくるだろうかと気にしていたが、どうも時の流れは人の気持を変えさせてしまったようだ。
 私は新しく建った工場に第一陣の先発隊として、10数人の部下を引き連れ乗り込んで行って、悲喜こもごも、幾つもの思い出があったはずなのに、今は何の感慨も湧き上がってこない。
 今は昔、私の中ではもう完全に過去の遺物になってしまったようだ。
 その会社の脇を通り抜けて、ひたすら「安売り市場」を目指す。土地勘に頼って、左右を確かめながら走り続けると、車の出入りの激しい駐車場を視界に入ってきた。
 女房が「お父さん、あそこ、あそこ」と大声を出す。
 夕食の惣菜を求める人たちなのであろうか、多くの人が行き交っていて、駐車場の入り口には3台の車が、駐車スペースが空くのを待っている。
 駐車場内は絶えず車が動いていて、数分待っていると車が動き出し、やっとの思いで車を停めることができた。
 女房の顔色が嬉々とした表情に変化した。
 店内に入ると大変な人で、おまけに通路は狭い。できるだけ多くの商品を陳列したいという店側の意向なのであろうが、私のような付き添いの人間は居場所がない。
 ほかの人に迷惑が掛かると思い、女房に一声掛けてから、店の前の自動販売機の前のベンチに座って、女房の買い物の終わるのを待っていた。
 ところが30分待っても女房が帰ってこない。
 再び、店内に入ってみると、女房が2つの買いもの籠に満タンの商品を詰め込んで、レジに並んでいる。安心して、また自動販売機の前で缶コーヒーを飲みながら、女房を待っているとガラス戸の向こうから手招きをする女房の姿が目に入ってきた。
 買い物の量が多いので手伝いに来いとサインを送っているのだ。
 行ってみると1つの買い物かごは野菜ばかりで埋められていた。いつもは纏め買いをしない女房にしては珍しいので、小声で尋ねてみると野菜がめちゃくちゃに安かったから、3日分ほどの野菜を買い込んできたということである。
 恥ずかしい話だが、私は現在の野菜の相場を知らない。
 女房の話によるとレタスの大玉1個が98円で、白ネギが5本一束で165円だと言うことである。
 そう言えば、確か4つ切れの蒲焼きが載っていたように思うが、店内を入ったところの弁当置き場に国産のうなぎの蒲焼き弁当が398円と表示してあったのを思い出した。
 野菜の値段の多寡に関して、私の判断を超えているが、このうなぎ弁当の398円という値段は、私でも安いと判断できる。私は自前で2個、買ってしまった。
 帰りの車の中で、早速、女房はスマホで娘に「野菜の安い店がある」と連絡している。
 この店は知多市に住んでいる娘のところから、そんなに遠くない。
 今、娘にそんな情報がいるのかと余分なことを言いそうになったが、じっと堪える。
 母親と娘はそんな些細な話題で、いつでもどこでも、瞬時に盛り上がることができる。
 女房と娘の幸せ探しは、そんな日常の会話の中にあるものかも知れない。
 私は2人のスマホでのやり取りをじっと聞いていた。

"私は2人のスマホでのやり取りをじっと聞いていた" へのコメントを書く

お名前[必須入力]
ホームページアドレス
コメント[必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。