私はYouTubeで、今日もアクセス数の多い歌謡曲を聴いている
私はこの1年半近く、コロナ禍でカラオケスナックの店に行かなくなってしまった。
その反動ではないが、YouTubeでアクセス回数の多い歌謡曲を捜し出し、好みの歌を見つかると繰り返し聴くようになった。
そのアクセス回数の多い動画内で、楽譜表示と歌詞表示のある歌謡曲が見つかると、ブログやFACEBOOKを書き終えたあと、まるでルーティーンのように繰り返し聴いて、ときには小声で歌ったりしている。
私は楽譜を読めるわけではないが、やはり楽譜付きのYouTube動画はメロディを覚えるのには大いに役立っている。
そう言えば、今から何年か前に、中学高校時代の友だちの娘婿が作曲をするという話を聞いてから、音楽センスのない私には、そうした才能を持った人が身近にいることがとても羨ましかった。
先だって、歌手のさだまさしさんが、ある詩に曲をつけることに挑戦するというNHK番組のコーナーがあった。さださんはその詩を読みながら、頭に浮かんだメロディの音符を白板にすらすらと書いていった。
私はそのシーンにたちまち見入ってしまい、しばらく固まってしまった。
どんな条件下でも1つの音を聞いたら、どの音階の音かを一瞬のうちに判別してしまう「絶対音感」を持っている人がこの世に存在することを私はそのとき改めて知らされた。
私は音楽に関しては鈍感で、音符を読むだけでハミングできる人は、ただそれだけで尊敬を通り越して、崇拝の念さえ感じてしまうのである。
そう言えば、音楽について色んな視点から書かれたエッセイがあることを思い出して、やおら私は本棚の奥から、1980年に講談社から発刊された神津善行氏の「音楽の落とし物 」を引っ張り出して読んでみた。
音痴論や楽器性格論、そして音楽と盗作論など、実に興味のある話が幾つも載っている。
そんな中で、やはり私が興味を引いたのはやはり「音楽盗作」に関するエッセイであった。
日本で盗作ではないかとの疑いを掛けられたのは、鈴木道明作曲「ワン・レイニー・ナイト・イン・東京」が、ハリー・ワレン作曲の「夢破れし並木路」に似ていると言われたことが端緒のようである。
だが、東京地裁は「二つの曲の旋律、節奏はかなり似たところがあるがワン・レニー曲には独創性の認められる部分もあり、同一のものとは断定しがたい」という判決を下した。
それ以後、音楽の世界では、全てが同じ旋律、節奏でなければ、いわゆる盗作と言われることはなくなった。
つまり、部分で似通った旋律があったとしても、音楽の趣味嗜好が似ていて、感動の度合いが大きければ、脳裏のどこかに刻まれていて、作曲する段階で知らず知らず出てきてしまうものらしい。
76年も長く生きてくると、音楽音痴の私の耳にさえも色々音楽の盗作騒ぎが聞こえてくることがある。
古くはベートーベンのピアノ協奏曲五番「皇帝」と中村八大氏が作曲した「上を向いて歩こう」が似ているとか、美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」と武田鉄矢がボーカルをつとめる海援隊の「母に捧げるバラード」の出だしの部分の何小節かが、「ヨイトマケの唄」のメロディで、明らかに盗作ではないかとか。見方によっては専門家に盗作の疑いのあると指摘される曲は枚挙にいとまがないとも言える。
素人の私にも、例に挙げた後者の「母に捧げるバラード」はまさに全く同じメロディと思えるのだが、当の武田鉄矢氏は美輪明宏氏との対談の中で、自然に浮かんできたメロディだったと語り、美輪氏もそれを即座に了承していた。
脳のどこかに一旦刻まれたメロディは、曲作りのモチベーションが沸いてきたときには、何がオリジナルかなどという詮索をいちいち振り返ることなしに、あらゆる雑念を一気に乗り越えて、自然と湧き出てくるものらしい。
ある音楽作曲家から聞いたことがある。
同じ旋律部分を多く持った2つ曲も編曲というフィルターを通すと、全く別の曲に変貌してしまうという危うさを音楽は内包しているというのである。
その音楽家が例に挙げたのは、古い例で申し訳ないが、演歌の山本譲二氏が歌った「みちのくひとり旅」のサビの部分と、もんた&ブラザーズが歌った「ダンシング・オールナイト」のサビの部分である。
ただ、この二つの曲は共に1980年に製作されていて、どちらが影響を受けたとは私に分かるはずもなく、音階が類似しているのは全くの偶然だったとしか思えない。
とてもじゃないが、音楽の世界は素人には分り得ない世界で、それだけ深遠な領域ということなのかも知れない。
今日も、私はYouTubeで、アクセス数の多い歌謡曲を聴いている。
その反動ではないが、YouTubeでアクセス回数の多い歌謡曲を捜し出し、好みの歌を見つかると繰り返し聴くようになった。
そのアクセス回数の多い動画内で、楽譜表示と歌詞表示のある歌謡曲が見つかると、ブログやFACEBOOKを書き終えたあと、まるでルーティーンのように繰り返し聴いて、ときには小声で歌ったりしている。
私は楽譜を読めるわけではないが、やはり楽譜付きのYouTube動画はメロディを覚えるのには大いに役立っている。
そう言えば、今から何年か前に、中学高校時代の友だちの娘婿が作曲をするという話を聞いてから、音楽センスのない私には、そうした才能を持った人が身近にいることがとても羨ましかった。
先だって、歌手のさだまさしさんが、ある詩に曲をつけることに挑戦するというNHK番組のコーナーがあった。さださんはその詩を読みながら、頭に浮かんだメロディの音符を白板にすらすらと書いていった。
私はそのシーンにたちまち見入ってしまい、しばらく固まってしまった。
どんな条件下でも1つの音を聞いたら、どの音階の音かを一瞬のうちに判別してしまう「絶対音感」を持っている人がこの世に存在することを私はそのとき改めて知らされた。
私は音楽に関しては鈍感で、音符を読むだけでハミングできる人は、ただそれだけで尊敬を通り越して、崇拝の念さえ感じてしまうのである。
そう言えば、音楽について色んな視点から書かれたエッセイがあることを思い出して、やおら私は本棚の奥から、1980年に講談社から発刊された神津善行氏の「音楽の落とし物 」を引っ張り出して読んでみた。
音痴論や楽器性格論、そして音楽と盗作論など、実に興味のある話が幾つも載っている。
そんな中で、やはり私が興味を引いたのはやはり「音楽盗作」に関するエッセイであった。
日本で盗作ではないかとの疑いを掛けられたのは、鈴木道明作曲「ワン・レイニー・ナイト・イン・東京」が、ハリー・ワレン作曲の「夢破れし並木路」に似ていると言われたことが端緒のようである。
だが、東京地裁は「二つの曲の旋律、節奏はかなり似たところがあるがワン・レニー曲には独創性の認められる部分もあり、同一のものとは断定しがたい」という判決を下した。
それ以後、音楽の世界では、全てが同じ旋律、節奏でなければ、いわゆる盗作と言われることはなくなった。
つまり、部分で似通った旋律があったとしても、音楽の趣味嗜好が似ていて、感動の度合いが大きければ、脳裏のどこかに刻まれていて、作曲する段階で知らず知らず出てきてしまうものらしい。
76年も長く生きてくると、音楽音痴の私の耳にさえも色々音楽の盗作騒ぎが聞こえてくることがある。
古くはベートーベンのピアノ協奏曲五番「皇帝」と中村八大氏が作曲した「上を向いて歩こう」が似ているとか、美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」と武田鉄矢がボーカルをつとめる海援隊の「母に捧げるバラード」の出だしの部分の何小節かが、「ヨイトマケの唄」のメロディで、明らかに盗作ではないかとか。見方によっては専門家に盗作の疑いのあると指摘される曲は枚挙にいとまがないとも言える。
素人の私にも、例に挙げた後者の「母に捧げるバラード」はまさに全く同じメロディと思えるのだが、当の武田鉄矢氏は美輪明宏氏との対談の中で、自然に浮かんできたメロディだったと語り、美輪氏もそれを即座に了承していた。
脳のどこかに一旦刻まれたメロディは、曲作りのモチベーションが沸いてきたときには、何がオリジナルかなどという詮索をいちいち振り返ることなしに、あらゆる雑念を一気に乗り越えて、自然と湧き出てくるものらしい。
ある音楽作曲家から聞いたことがある。
同じ旋律部分を多く持った2つ曲も編曲というフィルターを通すと、全く別の曲に変貌してしまうという危うさを音楽は内包しているというのである。
その音楽家が例に挙げたのは、古い例で申し訳ないが、演歌の山本譲二氏が歌った「みちのくひとり旅」のサビの部分と、もんた&ブラザーズが歌った「ダンシング・オールナイト」のサビの部分である。
ただ、この二つの曲は共に1980年に製作されていて、どちらが影響を受けたとは私に分かるはずもなく、音階が類似しているのは全くの偶然だったとしか思えない。
とてもじゃないが、音楽の世界は素人には分り得ない世界で、それだけ深遠な領域ということなのかも知れない。
今日も、私はYouTubeで、アクセス数の多い歌謡曲を聴いている。
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