純文学とは?エンタテインメント小説とは?

 私は現在、高橋一清氏の『芥川賞・直木賞をとる!あなたも作家になれる』というタイトルの文庫本を読んでいる。
 高橋氏はこの文庫本の「あとがき」で次のように書いている。
 <出版社の文藝春秋に昭和42(一九六七)年に入社し、「文學界」「別冊文藝春秋」「文藝春秋」「週刊文春」「オール讀物」、また出版局の部員として、そして「別冊文藝春秋」「文春文庫」「「文藝春秋臨時増刊」の編集部長として、平成十七(二○○五)年に退社するまで働きました。そのあいだ、日本文学振興会の主催する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」「大宅壮一ノンフィクション賞」「松本清張賞」「菊池寛賞」の社内選考委員(下読み委員)を務め、うち五年間は、責任者として、それら各賞の運営と進行にあたりました。三十八年の編集者生活は、小説の原稿、文芸誌、同人誌、そして単行本の読みの明け暮れでありました。>
 つまり、高橋氏はこの30年余り、「芥川賞・直木賞」に最も関わりの深かった人だということができる。
 それに加えて、高橋氏は1944年生まれで、私と同い年であり、奇しくも昭和42(1967)年は、私が芥川賞作品を読み始めた年でもある。それもまた、この本の内容に対して、より親近感を持たせてくれる。
 従って、1967年上半期の第57回の受賞作、大城立裕氏の『カクテル・パーティー』から、第154回(2015年下半期)の滝口悠生氏の『死んでいない者』と本谷有希子さんの『異類婚姻譚』まで、ただし第58回の柏原兵三氏の『徳山道助の帰郷』と第111回 室井光広氏『おどるでく』と笙野頼子さんの『タイムスリップ・コンビナート』の3冊を除くが、そのほかの受賞作はすべて本棚に収められている。
 さらに1967年以前では、吉行淳之介『驟雨』、石原慎太郎『太陽の季節』、菊村到『硫黄島』、開高健『裸の王様』、大江健三郎『飼育』、北杜夫『夜と霧の隅で』、三浦哲郎『忍ぶ川』、河野多惠子『蟹』、田辺聖子『感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ』、柴田翔『されどわれらが日々──』、高井有一『北の河』、丸山健二『夏の流れ』の単行本が並んでいる。トータルで120冊の芥川受賞作の単行本が並んでいる。
 このブログでも、石原慎太郎氏の『太陽の季節』、三浦哲郎氏の『忍ぶ川』、柴田翔氏の『されどわれらが日々──』の読後感を書いている。
 自分の感性に合わない作品の場合は、端から敬遠するし、読み始めても感性が合わずにに、自分の根気が継続しない作品もあって、およそ3分の1は未読のままになっている。
 高橋氏が芥川賞に関わりを持つようになってからの作家は、私もほぼリアルタイムで作品に接していることもあって、この『芥川賞・直木賞をとる!あなたも作家になれる』に登場する作家たちは馴染みも深く、特に受賞作品を読んだことのある作家は、ついつい懐かしさが込み上げてくる。
 それに比べて、直木賞の受賞作品は、長編小説が多いこともあって、20冊も読んでいない。
 また高橋氏は、この本の中で次のように述べている。
 <(直木賞が対象としているような)エンタテインメント小説は、「私の知らないことが書いてある」と読者を喜ばせるのが仕事だからだ。一方、芥川賞および純文学は、今日を生きている者の愛と苦悩を書き、「まるで私のことが書いてあるみたい」と、読者を共感させ喜ばせて欲しいジャンルなのである。>
 私は成る程と思った。
 作家がまずやらねばならないのは、語彙を豊富にすることだと言われている。
 だが、同じ語彙を豊富にするにしても、上述の文章を読んでいて、直木賞作家と芥川賞作家が小説の中で駆使しようとする語彙は、根本的に大きな違いがあるように思えてきた。
 直木賞では、「私の知らないことが書いてある」という側面から、テンポやストーリーを重視する傾向にあり、四文字熟語や難しい熟語、そして専門用語やカタカナ言葉も多用する。それに引き替え、芥川賞では、「まるで私のことが書いてあるみたい」と読者に訴えようとするために、インプレッシブな表現や読者の心の機微に響くような、自分特有の言葉を選んで書いている。それは読者の深奥に迫る表現を作者独自の文体で、心理面からも掘り下げて描写したいからだと思われる。
 そう思うには、私だけの錯覚であろうか。

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