愛の予感はいつしか別れの予感に置き換わっていた
男は、20歳を迎えた6月頃であったろうか、京都まで初恋の人に会いに行ったことがあった。
京都に着いた1日目は、同志社大学に通っていた中学高校時代の友だちの下宿に泊まらせてもらい、次の日に彼女の下宿に電話を入れて、四条河原町にある高島屋のフラワーショップで待ち合わせをすることにした。50年も前のことである。
午後3時の待ち合わせなのに、男は気持を抑えきれずに30分も前に1階のフラワーショップに行き、赤いエプロン姿の若い2人の店員に訝しがられながらも、店の前に立ち続け、彼女が来るのをじっと待っていた。
3時が過ぎ、3時半となり、4時近くになっても彼女は現れない。
彼女の下宿に電話を入れてみると、出掛けていますよ、とそっけない返事が返ってくる。携帯電話のない時代である。男には、ただ待つというよりほかに手だてはなかった。
彼女とは学校の部室や裏門、私鉄沿線の書店などで何度か待ち合わせたが、約束の時間に一度も遅れたことはなかった。1時間を過ぎると、さすがの男も何かあったのではないかと心配になり、急に胸が痛くなってきて、じっとしていられなくなってきた。
ふとそのとき、待ち合わせ場所を間違えたのではないかと不安になり、高島屋の店員にフラワーショップはここだけかと尋ねてみると、4階にも同じようなフラワーショップがありますよと言う。
しまった。男は店員に、店内放送で呼び出してくれるよう懇願した。
店員は、男の気迫に押されたのか、若い方の店員に何かを指示してから、わざわざ同じ階のアナウンス部まで走って行ってくれた。
しばらくすると、店内放送が彼女を呼び出している。男は待っている間に彼女がもうすでに帰ってしまったかも知れない、そんな思いが頭をよぎり、どうか4階のフラワーショップにいてくれと祈るような気持で待っていた。
よほど男の表情は深刻だったようで、フラワーショップの店員2人も何度か、下りのエスカレーター付近に目を遣っている。
しばらくすると、後ろから男の肩を叩く人がいた。
満面の笑みを浮かべた彼女だった。
「これもいい思い出になるわね!」
自分の迂闊さを悔いながら、男は店員に大きな声でお礼を言ってから、高島屋のフラワーショップをあとにした。
休日の三条河原町から四条河原町にかけての路上には、人が溢れていて、今にもぶつかりそうで、いかにも歩きにくい。
2人は加茂川沿いをしばらく散策してから、祇園の先斗町に向かっていった。
通りには丹念に水が撒かれていて、店の門のところには、山形に盛り塩が置かれていた。狭い露地の石畳の上を歩きながら、高校時代、毎日のように駅への道を2人で歩いたのは、たった2年前のことなのにまるで遠い昔のように思い出していた。
今は、もう学生服とセーラー服の2人ではない。2人は確実に大人への階段を上りつつある。
ベージュ色のツーピースは、意外なほど彼女の身体にフィットしていて、これまでセーラー服の下に隠れていた体の線の膨らみがあらわれている。男にはまぶしかった。
彼女の中に女をはじめて感じていた。
男は、京都という不案内な土地で、しかも一人も知り合いもいない空間で、こうして2人だけで会っていることが信じられなかった。まるで夢見心地のような思いになっていた。
先斗町を通り抜けたところに、1軒の喫茶店があった。
入ってみると店内は暗く、アベック喫茶と言われる店のようだった。お好きなところへどうぞと言われ、向かい合って座ったテーブルの中央に、紫色のヴェネチアン・グラスの蝋燭立てがあり、すでに灯かりが点っていた。その両脇にはバラの造花が2つ、そっと置かれていた。突然、彼女が男に問いかけた。
「ねえ、幾つになったら、結婚するつもりなの?」
「大学卒業しても、すぐ結婚するのは経済的に苦しいから、たぶん28ぐらいかな!」
「じゃあ、わたしは26歳まで待てばいいのね」 彼女は囁くように言った。
すると、紫色のヴェネチアン・グラスの中の蝋燭の灯りが、一瞬、風もないのに揺れた。 予期しない愛の予感が、鋭い速さで男の身体を突き抜けていった。
だが、4年後には愛の予感は、別れの予感に置き換わっていった。
京都に着いた1日目は、同志社大学に通っていた中学高校時代の友だちの下宿に泊まらせてもらい、次の日に彼女の下宿に電話を入れて、四条河原町にある高島屋のフラワーショップで待ち合わせをすることにした。50年も前のことである。
午後3時の待ち合わせなのに、男は気持を抑えきれずに30分も前に1階のフラワーショップに行き、赤いエプロン姿の若い2人の店員に訝しがられながらも、店の前に立ち続け、彼女が来るのをじっと待っていた。
3時が過ぎ、3時半となり、4時近くになっても彼女は現れない。
彼女の下宿に電話を入れてみると、出掛けていますよ、とそっけない返事が返ってくる。携帯電話のない時代である。男には、ただ待つというよりほかに手だてはなかった。
彼女とは学校の部室や裏門、私鉄沿線の書店などで何度か待ち合わせたが、約束の時間に一度も遅れたことはなかった。1時間を過ぎると、さすがの男も何かあったのではないかと心配になり、急に胸が痛くなってきて、じっとしていられなくなってきた。
ふとそのとき、待ち合わせ場所を間違えたのではないかと不安になり、高島屋の店員にフラワーショップはここだけかと尋ねてみると、4階にも同じようなフラワーショップがありますよと言う。
しまった。男は店員に、店内放送で呼び出してくれるよう懇願した。
店員は、男の気迫に押されたのか、若い方の店員に何かを指示してから、わざわざ同じ階のアナウンス部まで走って行ってくれた。
しばらくすると、店内放送が彼女を呼び出している。男は待っている間に彼女がもうすでに帰ってしまったかも知れない、そんな思いが頭をよぎり、どうか4階のフラワーショップにいてくれと祈るような気持で待っていた。
よほど男の表情は深刻だったようで、フラワーショップの店員2人も何度か、下りのエスカレーター付近に目を遣っている。
しばらくすると、後ろから男の肩を叩く人がいた。
満面の笑みを浮かべた彼女だった。
「これもいい思い出になるわね!」
自分の迂闊さを悔いながら、男は店員に大きな声でお礼を言ってから、高島屋のフラワーショップをあとにした。
休日の三条河原町から四条河原町にかけての路上には、人が溢れていて、今にもぶつかりそうで、いかにも歩きにくい。
2人は加茂川沿いをしばらく散策してから、祇園の先斗町に向かっていった。
通りには丹念に水が撒かれていて、店の門のところには、山形に盛り塩が置かれていた。狭い露地の石畳の上を歩きながら、高校時代、毎日のように駅への道を2人で歩いたのは、たった2年前のことなのにまるで遠い昔のように思い出していた。
今は、もう学生服とセーラー服の2人ではない。2人は確実に大人への階段を上りつつある。
ベージュ色のツーピースは、意外なほど彼女の身体にフィットしていて、これまでセーラー服の下に隠れていた体の線の膨らみがあらわれている。男にはまぶしかった。
彼女の中に女をはじめて感じていた。
男は、京都という不案内な土地で、しかも一人も知り合いもいない空間で、こうして2人だけで会っていることが信じられなかった。まるで夢見心地のような思いになっていた。
先斗町を通り抜けたところに、1軒の喫茶店があった。
入ってみると店内は暗く、アベック喫茶と言われる店のようだった。お好きなところへどうぞと言われ、向かい合って座ったテーブルの中央に、紫色のヴェネチアン・グラスの蝋燭立てがあり、すでに灯かりが点っていた。その両脇にはバラの造花が2つ、そっと置かれていた。突然、彼女が男に問いかけた。
「ねえ、幾つになったら、結婚するつもりなの?」
「大学卒業しても、すぐ結婚するのは経済的に苦しいから、たぶん28ぐらいかな!」
「じゃあ、わたしは26歳まで待てばいいのね」 彼女は囁くように言った。
すると、紫色のヴェネチアン・グラスの中の蝋燭の灯りが、一瞬、風もないのに揺れた。 予期しない愛の予感が、鋭い速さで男の身体を突き抜けていった。
だが、4年後には愛の予感は、別れの予感に置き換わっていった。
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