テンポよく無駄が省かれた文章が心地いい
午後1時からの勤務に間に合うように、午後12時半ごろ、私は地元の駅舎二階の改札口のフロアからJR東海道線を跨いで架けられている陸橋を渡って行った。
今日はさすがに大みそかで、人影はちらほらとしか視界に入ってこない。陸橋の真ん中あたりにやって来ると、たまたま上下線の列車が同時にプラットホームに入ってきた。どちらも6両列車だが、一つの客車には2、3人の乗客しか乗っていない。
わが町の駅は、ここ数年間、乗車利用者だけでも1日1万2千人を超えている。従って、通常のウィークデイであれば、たとえ昼時であっても駅周辺はJR利用者で混雑している。だが、今日はまったくその様相が違っていて、いつもは車で埋め尽くされる駅前のロータリー広場も乗用車が2、3台しか停まっていない。まるで鄙びた街の駅舎然としている。
そうした駅周辺の風情を反映してか、今日は仕事もまったく暇であった。
7時間勤務のうちで、仕事らしい仕事をしたのはたった3時間ほどで、残りの1時間半はワークシェア・メンバーが2人、年末の挨拶にやって来てくれたので、世間話をして費やし、あとの2時間半は事務所の机の前に座っていただけだった。
12月29日から1月3日までは、時給が倍となる。会社としては1年間の「ご苦労様手当」のつもりで支払ってくれているのであろうが、4時間近くも仕事らしい仕事もしないでいると申し訳ないような気になってくる。
私は多少の後ろめたさを感じつつ、午後4時半ごろから、手持無沙汰もあって読書をしていた。
まず、読みかけだった池井戸潤氏の『民王』を読み終わり、続いて蓮見圭一氏の短編集『そらいろのクレヨン』に収められている5編のうちの2編を読み終えた。
私は久しぶりに蓮見圭一氏の小説を読んでみて、改めて蓮見圭一氏の文体が自分の波長に合っているということがよく分かった。
例えば、『そらいろのクレヨン』の中の「詩人の恋」に私の波長にぴったりの箇所があった。その箇所とは、蓮見氏と思われる作家が、ホテルのロビーで編集者の日野という男性と打ち合わせをしている場面である。
その編集者には13歳年上の妻がいる。その妻が同じロビーの向かい側のテーブルにテノール歌手をしている前夫との間にできた息子と一緒に座り、編集者の仕事が終了するのを待っている。
編集者は、向かい側の女性は13歳年上の自分の妻だと語り、結婚するまでの経緯を主人公の作家に語り、その口ぶりの中に二人の絆の深さを窺い知る。経緯を知った主人公は編集者とその妻にシャンペンを振舞おうとする。その場面の描写は次のようだ。
<僕はウェイターを呼び止め、シャンパンを注文する。そして、日野の妻にも同じ物をグラスで届けるようにと頼む。テノール歌手はもういない。ほどなく彼女のテーブルにシャンパンが届けられる。日野の妻は居住まいを正し、真っ直ぐにこちらを向いて微笑む。僕がグラスを持ち上げると、同じ仕草をする。シャンパンのグラスに口をつけると、彼女も少しだけグラスに口をつけ、もう一度、こちらを向いて微笑む。チャーミングな女性だ。日野の妻は席を立ち、真っ直ぐに僕たちの席へやって来る。かなりの長身だ。僕は立ち上がって迎え、彼女と握手をする。指がとても細くて長い。しかも引き締まった感じがする。ピアニストの指とはこういうものなのだろうかと思う。>
短い文章で段落も設けず、畳み込むように表現で描写していく。実に心地よく、無駄が省かれた文章である。
私もこうした文章を書きたいと思いながらも、気持が先だって思いつくまま書いていると、結局は冗長な文章になっている。羨ましいと思っても、私の文章技術では今さらどうしようもない。
いずれにしても、自分の気持を文章で綴るのは難しいということだけは確かなようだ。
今日はさすがに大みそかで、人影はちらほらとしか視界に入ってこない。陸橋の真ん中あたりにやって来ると、たまたま上下線の列車が同時にプラットホームに入ってきた。どちらも6両列車だが、一つの客車には2、3人の乗客しか乗っていない。
わが町の駅は、ここ数年間、乗車利用者だけでも1日1万2千人を超えている。従って、通常のウィークデイであれば、たとえ昼時であっても駅周辺はJR利用者で混雑している。だが、今日はまったくその様相が違っていて、いつもは車で埋め尽くされる駅前のロータリー広場も乗用車が2、3台しか停まっていない。まるで鄙びた街の駅舎然としている。
そうした駅周辺の風情を反映してか、今日は仕事もまったく暇であった。
7時間勤務のうちで、仕事らしい仕事をしたのはたった3時間ほどで、残りの1時間半はワークシェア・メンバーが2人、年末の挨拶にやって来てくれたので、世間話をして費やし、あとの2時間半は事務所の机の前に座っていただけだった。
12月29日から1月3日までは、時給が倍となる。会社としては1年間の「ご苦労様手当」のつもりで支払ってくれているのであろうが、4時間近くも仕事らしい仕事もしないでいると申し訳ないような気になってくる。
私は多少の後ろめたさを感じつつ、午後4時半ごろから、手持無沙汰もあって読書をしていた。
まず、読みかけだった池井戸潤氏の『民王』を読み終わり、続いて蓮見圭一氏の短編集『そらいろのクレヨン』に収められている5編のうちの2編を読み終えた。
私は久しぶりに蓮見圭一氏の小説を読んでみて、改めて蓮見圭一氏の文体が自分の波長に合っているということがよく分かった。
例えば、『そらいろのクレヨン』の中の「詩人の恋」に私の波長にぴったりの箇所があった。その箇所とは、蓮見氏と思われる作家が、ホテルのロビーで編集者の日野という男性と打ち合わせをしている場面である。
その編集者には13歳年上の妻がいる。その妻が同じロビーの向かい側のテーブルにテノール歌手をしている前夫との間にできた息子と一緒に座り、編集者の仕事が終了するのを待っている。
編集者は、向かい側の女性は13歳年上の自分の妻だと語り、結婚するまでの経緯を主人公の作家に語り、その口ぶりの中に二人の絆の深さを窺い知る。経緯を知った主人公は編集者とその妻にシャンペンを振舞おうとする。その場面の描写は次のようだ。
<僕はウェイターを呼び止め、シャンパンを注文する。そして、日野の妻にも同じ物をグラスで届けるようにと頼む。テノール歌手はもういない。ほどなく彼女のテーブルにシャンパンが届けられる。日野の妻は居住まいを正し、真っ直ぐにこちらを向いて微笑む。僕がグラスを持ち上げると、同じ仕草をする。シャンパンのグラスに口をつけると、彼女も少しだけグラスに口をつけ、もう一度、こちらを向いて微笑む。チャーミングな女性だ。日野の妻は席を立ち、真っ直ぐに僕たちの席へやって来る。かなりの長身だ。僕は立ち上がって迎え、彼女と握手をする。指がとても細くて長い。しかも引き締まった感じがする。ピアニストの指とはこういうものなのだろうかと思う。>
短い文章で段落も設けず、畳み込むように表現で描写していく。実に心地よく、無駄が省かれた文章である。
私もこうした文章を書きたいと思いながらも、気持が先だって思いつくまま書いていると、結局は冗長な文章になっている。羨ましいと思っても、私の文章技術では今さらどうしようもない。
いずれにしても、自分の気持を文章で綴るのは難しいということだけは確かなようだ。
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