行動と存在感だけで子どもたちに勇気を与える「大人の童話」
アルバイト先の3連続勤務が終わり、私は昨日から今度は逆に5日間連続の休みに入っている。
久しぶりに女房と涼しい場所にでも出掛けようかなと思っていたら、もうずいぶん前から孫娘2人を連れて、「トリックアート展」を観に行く予定になっていたとかで、女房は朝食も早々に名古屋に出掛けて行った。
私はひとり、家に取り残された。
私は仕方なく、自分の部屋に閉じこもり、先だって古書店で買ってきた伊集院静氏の『機関車先生』を読み出した。そして、夢中になって読んだのか、夕方には読み終えていた。
どういう訳か、私は学校の先生を描いた小説が好きで、どんな内容かも確かめもせずに「先生」とタイトルに書いてあるだけで衝動的に購入する悪癖がある。
この伊集院静氏の『機関車先生』もタイトルだけで買ってしまった。
この小説を読み終わって真っ先に思ったのは、これは大人の童話だということである。その理由はあとで述べることとして、まずは粗筋を書いてみる。
<瀬戸内の葉名島にある全校生徒7名という小さな小学校へ、春の新学期が始まろうとするある日、北海道から臨時の先生・吉岡誠吾がやってきた。
誠吾は幼いころの病気のせいで、口をきくことができない。生徒たちは身体が大きく体育系の風貌から、誠吾を「機関車先生」と呼ぶようになる。
はじめ生徒たちはどう対応しようかと戸惑うが、幾つかの出来事を重ねつつ、誠吾と子どもたちとの溝は埋まっていく。そして次第に小さな島の住民たちとの交流も深まっていく。
ただ島の中にもそれぞれ大人たちの生活があり、一部では口がきけないから充分な教育ができないのではないかという島民の不安が持ち上がったりするが、それも実際の誠吾の授業を見て、島民たちはその行動と存在感に自分たちの不安が杞憂だということが分かる。
校長の佐古周一郎との交流の中で、誠吾の剣道の腕前が相当なものであることを知り、周一郎は誠吾に県の剣道大会への出場を薦める。そして、大会に出場した誠吾はどんどんと勝ち進んでゆく。
生徒たちはもとより、島民が一体となっての応援で、機関車先生として誠吾の島での存在感はさらに増していく。
だが、臨時教員の誠吾は夏休みの終わりには北海道へ帰ってゆく。校長の周一郎が生徒たちを引率して本州に渡り、機関車に子どもたちを乗せて、向かいのプラットホームに佇む誠吾との最後の別れをさせる。誠吾は後ろ髪引かれる思いを持つが、北海道にも彼を待つ子どもたちがいる。そして別れのときは来た。
修平が帽子を片手に握り締めて、
「機関車、機関車先生、わし、機関車が大好きじゃったから、本当じゃ、本当に好きじゃったからの」
と大声で言った。
修平の声に機関車先生が帽子を脱いで、最敬礼をした。その姿をホームに入ってきた上りの記者が消した。耳をつんざくような汽笛の音が周囲に響いた。ふたつの汽車がゆっくりと交差していった。汽車が行き過ぎたプラットホームには、あのおおきくやさしかった吉岡誠吾の姿は失せていた。>
機関車先生は口がきけない。だから、口で生徒を教えることや諭すことはできない。自分の行動と存在感で、生きるとは何か、勇気を持って立ち向かうとは何かを示さなければならない。
夢や希望を与えるのが子どもの童話と定義するならば、行動と存在感で子どもたちに勇気を与えるのが、私の勝手なジャンル分けだが、大人の童話と言ってもいいのではなかろうか。
久しぶりに女房と涼しい場所にでも出掛けようかなと思っていたら、もうずいぶん前から孫娘2人を連れて、「トリックアート展」を観に行く予定になっていたとかで、女房は朝食も早々に名古屋に出掛けて行った。
私はひとり、家に取り残された。私は仕方なく、自分の部屋に閉じこもり、先だって古書店で買ってきた伊集院静氏の『機関車先生』を読み出した。そして、夢中になって読んだのか、夕方には読み終えていた。
どういう訳か、私は学校の先生を描いた小説が好きで、どんな内容かも確かめもせずに「先生」とタイトルに書いてあるだけで衝動的に購入する悪癖がある。
この伊集院静氏の『機関車先生』もタイトルだけで買ってしまった。
この小説を読み終わって真っ先に思ったのは、これは大人の童話だということである。その理由はあとで述べることとして、まずは粗筋を書いてみる。
<瀬戸内の葉名島にある全校生徒7名という小さな小学校へ、春の新学期が始まろうとするある日、北海道から臨時の先生・吉岡誠吾がやってきた。
誠吾は幼いころの病気のせいで、口をきくことができない。生徒たちは身体が大きく体育系の風貌から、誠吾を「機関車先生」と呼ぶようになる。
はじめ生徒たちはどう対応しようかと戸惑うが、幾つかの出来事を重ねつつ、誠吾と子どもたちとの溝は埋まっていく。そして次第に小さな島の住民たちとの交流も深まっていく。
ただ島の中にもそれぞれ大人たちの生活があり、一部では口がきけないから充分な教育ができないのではないかという島民の不安が持ち上がったりするが、それも実際の誠吾の授業を見て、島民たちはその行動と存在感に自分たちの不安が杞憂だということが分かる。
校長の佐古周一郎との交流の中で、誠吾の剣道の腕前が相当なものであることを知り、周一郎は誠吾に県の剣道大会への出場を薦める。そして、大会に出場した誠吾はどんどんと勝ち進んでゆく。
生徒たちはもとより、島民が一体となっての応援で、機関車先生として誠吾の島での存在感はさらに増していく。
だが、臨時教員の誠吾は夏休みの終わりには北海道へ帰ってゆく。校長の周一郎が生徒たちを引率して本州に渡り、機関車に子どもたちを乗せて、向かいのプラットホームに佇む誠吾との最後の別れをさせる。誠吾は後ろ髪引かれる思いを持つが、北海道にも彼を待つ子どもたちがいる。そして別れのときは来た。
修平が帽子を片手に握り締めて、
「機関車、機関車先生、わし、機関車が大好きじゃったから、本当じゃ、本当に好きじゃったからの」
と大声で言った。
修平の声に機関車先生が帽子を脱いで、最敬礼をした。その姿をホームに入ってきた上りの記者が消した。耳をつんざくような汽笛の音が周囲に響いた。ふたつの汽車がゆっくりと交差していった。汽車が行き過ぎたプラットホームには、あのおおきくやさしかった吉岡誠吾の姿は失せていた。>
機関車先生は口がきけない。だから、口で生徒を教えることや諭すことはできない。自分の行動と存在感で、生きるとは何か、勇気を持って立ち向かうとは何かを示さなければならない。
夢や希望を与えるのが子どもの童話と定義するならば、行動と存在感で子どもたちに勇気を与えるのが、私の勝手なジャンル分けだが、大人の童話と言ってもいいのではなかろうか。
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