花は自然の摂理に従って満開に咲いて、時とともに散っていく
明日からアルバイト先で連続3日間の勤務が始まる。1日目は朝1時間半早出で、2日目は午後1時から8時まで、3日目は午前8時から午後1時までの勤務である。
この歳になっても働かせてもらっているだけでもありがたいと思うのが全うなのかも知れないが、やはり3日間連続勤務は精神的にも体力的にも堪える。それは基本的に一人作業で、しかも今の私にとっては多額の現金を扱うこともあって、嫌でも緊張しっ放し状態が勤務交替のときまで続くからかも知れない。
そんな自分の気持を和ませるために、明日からは少し遠回りになっても、いつもの通勤する道とは違って道を歩いてみようと思い付いた。
と言うのは、私が通勤のときに通る本通りの街路樹は多くは花水木で、三つの交差点を通過して駅に近くなるにつれてくちなしの木やツツジの木が増えるが、今はそうした木々は濃い燻った色の葉を付けているだけで、何とも味気ない。
そこで私は考えた。
いつもは左に曲がる本通りを突っ切って、古くからある公園越えで出勤して行けば、その道路の両脇には百日紅がピンクの花を付けているに違いないと思えたからだ。
最近になって、私の住む町内でも百日紅の花をよく見かけるようになったし、新規に開発された道路には街路樹として植えられるのは百日紅が多いように思われる。環境の変化に強い木なのであろうか。
サルスベリをなぜ漢字で百日紅と表記するのか。それは100日という長い期間、ずっと花を咲かせているからだとどこかで聞いたことがある。確かそのときに花言葉も雄弁・愛敬・雄弁だとも聞いた。
百日紅の花は近付いてよく見ると愛らしい花で、花言葉の愛敬にぴったりと当て嵌まっている。
歳を重ねるにつれて、私は百日紅だけではなく、折々に色んな花がきれいに咲いているのを見ると、果たして自分は来年も同じ花を見ることができるだろうかと考えるようになってしまった。花が咲き、そして散っていく姿を見て、何も次の年のことを思い煩うのは今の自分にとって、さして必要のない話なのについつい考えてしまっている。
けれどもよくよく考えてみると私が花をよく見るようになって、自分の気持の起伏に照らし合わせて感情移入するようになったのは現役サラリーマンをRetireしてからで、たったここ数年のことである。それまで忙し過ぎたこともあってか、いちいち満開の花々を見て、立ち止まるほど感嘆した記憶はない。
子どもたちが成人した50代の頃から、女房は狭い庭で工夫をしながら、四季折々に咲くさまざまな草木を植えて愉しんでいたようだが、私がそのことに気づいたのも会社をRetireしたあとだった。
私という自称感傷主義者は、咲き誇っている花に向かって自分の人生の沈鬱や幸不幸を投影させ、「世界にただ一つの花」などと浅薄な思いを覆いかぶせて、自分勝手に悦に入っている。
確かにすべての花に命は存在していることは自明のことだが、花は自然の摂理に従って満開に咲いて、時とともに散っていく。そんな花に向かって自分勝手な思いを重ねるのは、私という人間の弱さ、傲慢さの表れだということもできる。
ただ単に四季折々、人は花の美しさ、愛らしさのみを讃えればいいのかも知れない。
この歳になっても働かせてもらっているだけでもありがたいと思うのが全うなのかも知れないが、やはり3日間連続勤務は精神的にも体力的にも堪える。それは基本的に一人作業で、しかも今の私にとっては多額の現金を扱うこともあって、嫌でも緊張しっ放し状態が勤務交替のときまで続くからかも知れない。
そんな自分の気持を和ませるために、明日からは少し遠回りになっても、いつもの通勤する道とは違って道を歩いてみようと思い付いた。
と言うのは、私が通勤のときに通る本通りの街路樹は多くは花水木で、三つの交差点を通過して駅に近くなるにつれてくちなしの木やツツジの木が増えるが、今はそうした木々は濃い燻った色の葉を付けているだけで、何とも味気ない。
そこで私は考えた。
いつもは左に曲がる本通りを突っ切って、古くからある公園越えで出勤して行けば、その道路の両脇には百日紅がピンクの花を付けているに違いないと思えたからだ。
最近になって、私の住む町内でも百日紅の花をよく見かけるようになったし、新規に開発された道路には街路樹として植えられるのは百日紅が多いように思われる。環境の変化に強い木なのであろうか。
サルスベリをなぜ漢字で百日紅と表記するのか。それは100日という長い期間、ずっと花を咲かせているからだとどこかで聞いたことがある。確かそのときに花言葉も雄弁・愛敬・雄弁だとも聞いた。
百日紅の花は近付いてよく見ると愛らしい花で、花言葉の愛敬にぴったりと当て嵌まっている。
歳を重ねるにつれて、私は百日紅だけではなく、折々に色んな花がきれいに咲いているのを見ると、果たして自分は来年も同じ花を見ることができるだろうかと考えるようになってしまった。花が咲き、そして散っていく姿を見て、何も次の年のことを思い煩うのは今の自分にとって、さして必要のない話なのについつい考えてしまっている。
けれどもよくよく考えてみると私が花をよく見るようになって、自分の気持の起伏に照らし合わせて感情移入するようになったのは現役サラリーマンをRetireしてからで、たったここ数年のことである。それまで忙し過ぎたこともあってか、いちいち満開の花々を見て、立ち止まるほど感嘆した記憶はない。
子どもたちが成人した50代の頃から、女房は狭い庭で工夫をしながら、四季折々に咲くさまざまな草木を植えて愉しんでいたようだが、私がそのことに気づいたのも会社をRetireしたあとだった。
私という自称感傷主義者は、咲き誇っている花に向かって自分の人生の沈鬱や幸不幸を投影させ、「世界にただ一つの花」などと浅薄な思いを覆いかぶせて、自分勝手に悦に入っている。
確かにすべての花に命は存在していることは自明のことだが、花は自然の摂理に従って満開に咲いて、時とともに散っていく。そんな花に向かって自分勝手な思いを重ねるのは、私という人間の弱さ、傲慢さの表れだということもできる。
ただ単に四季折々、人は花の美しさ、愛らしさのみを讃えればいいのかも知れない。
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