生きるということは与えられた時間を食いつぶしていくこと
今日のアルバイト先の勤務は午後1時から8時までであったが、その間に3人もの人が私を尋ねてきてくれた。
どちらかというと、男は定年を過ぎると、さすがにあからさまではないにしろ、粗大ゴミ扱い視されること多くなる。そんなときに男たちは心のどこかに孤独の寂寥感のようなものを感じて、仲間との会話の中に心の安らぎの場を求める。そして、周囲を見渡してみて、父親という名の意地っ張り者が同じ臭いを持つ仲間を求めて、アルバイト先の事務所に三々五々集まってくる。今日もまた行き場のない思いを吐き出しに私のところにやってきた。
一人の人は接客のまずさから、私たちを統括する総務課の主任にお灸を据えられたと言い、2人目の言い分はワークシェアをしているメンバーの一人が就業マニュアル通りの業務をしていないので、次の日の作業開始時にそのフォローが面倒なので、リーダーである私から注意をしてほしいという要望であり、3人目は総務課の人で、グループ全員に今の業務のやり方が手順通りにやられているかどうか、会社の自己診断マニュアルに沿って、チェックしてほしいとの依頼であった。どうも、グループ・リーダーである私は明日から2、3日、そのフォローで自分の時間を取られそうだ。
少々気が重くなりつつ家に帰り、パソコンを開いてみたが、どうも昨日から動きが悪い。時には固まることもある。
許容できるメモリーが少なくなってきているのだろうか。まずゴミ箱に移動させてあるデータを削除し、保存してあるメールも削除した。そして、【お気に入り】に入れてはあるが、このところ更新されていない友だちや知人のブログ、そして有名人のブログを次々に削除していった。
中学時代の友だちのブログを【お気に入り】から削除するのは忍び難かったが、半年以上も更新されていなければ致し方あるまい。パソコンがスムーズに動くようになるためならと私は割り切った。
人と人との出会いは、すべからく、X軸の時間軸とY軸の空間軸との交点から生じる。中学時代の友だちとの交点は、53年前の中学3年3組の教室であった。その交点で知り合いとなり、友だちなんだという感情が生まれ、相手への思い遣りの気持が生まれた。貴重な時間という自覚もあった。
その後に私たちは中学を卒業し、心身ともに成長していき、それにつれて空間軸と時間軸も自分の成長とともに移動していく。つまり、一旦成長のための移動が始まると、それは恋人になるか、家族にでもならない限り、中学時代の交点は再び交わることはない。
未来に向けて時間が流れている限り、もう過去の交点には二度と同じ気持を抱いたままで戻れない。そんな簡単なことに、最近、やっと私は気付いた。そして、私は割り切った。
生きるということは、人それぞれに与えられた時間を食いつぶしていくことであり、一期一会にも似た幾つもの時間軸と空間軸の交点を喪失していくプロセスだと言い換えることができる。そして、歳を取るということは、自分たちの「将来」が次第に「予定」に置き換えられ、「未来」が自然な形で「老後」に置き換えられるプロセスだとも言える。
人は悲しいかな、決して元に戻り得ない時間軸をすんなりと認めて、淡々と老いを迎えるほど強くはない。
自分の弱さを隠すための緩衝材として、人には時と場合によって、忘却と感傷という本能ともいえる能力が兼ね備えている。いわば、その能力は心の傷を癒すビタミン剤と傷口をふさぐ絆創膏のようなものだ。
図らずも今日、中学時代の友だちのブログを削除したあと、私はそのビタミン剤を飲みつつ、心の傷に絆創膏を貼ったのである。友のブログよ、さようなら。
どちらかというと、男は定年を過ぎると、さすがにあからさまではないにしろ、粗大ゴミ扱い視されること多くなる。そんなときに男たちは心のどこかに孤独の寂寥感のようなものを感じて、仲間との会話の中に心の安らぎの場を求める。そして、周囲を見渡してみて、父親という名の意地っ張り者が同じ臭いを持つ仲間を求めて、アルバイト先の事務所に三々五々集まってくる。今日もまた行き場のない思いを吐き出しに私のところにやってきた。
一人の人は接客のまずさから、私たちを統括する総務課の主任にお灸を据えられたと言い、2人目の言い分はワークシェアをしているメンバーの一人が就業マニュアル通りの業務をしていないので、次の日の作業開始時にそのフォローが面倒なので、リーダーである私から注意をしてほしいという要望であり、3人目は総務課の人で、グループ全員に今の業務のやり方が手順通りにやられているかどうか、会社の自己診断マニュアルに沿って、チェックしてほしいとの依頼であった。どうも、グループ・リーダーである私は明日から2、3日、そのフォローで自分の時間を取られそうだ。
少々気が重くなりつつ家に帰り、パソコンを開いてみたが、どうも昨日から動きが悪い。時には固まることもある。
許容できるメモリーが少なくなってきているのだろうか。まずゴミ箱に移動させてあるデータを削除し、保存してあるメールも削除した。そして、【お気に入り】に入れてはあるが、このところ更新されていない友だちや知人のブログ、そして有名人のブログを次々に削除していった。
中学時代の友だちのブログを【お気に入り】から削除するのは忍び難かったが、半年以上も更新されていなければ致し方あるまい。パソコンがスムーズに動くようになるためならと私は割り切った。
人と人との出会いは、すべからく、X軸の時間軸とY軸の空間軸との交点から生じる。中学時代の友だちとの交点は、53年前の中学3年3組の教室であった。その交点で知り合いとなり、友だちなんだという感情が生まれ、相手への思い遣りの気持が生まれた。貴重な時間という自覚もあった。
その後に私たちは中学を卒業し、心身ともに成長していき、それにつれて空間軸と時間軸も自分の成長とともに移動していく。つまり、一旦成長のための移動が始まると、それは恋人になるか、家族にでもならない限り、中学時代の交点は再び交わることはない。
未来に向けて時間が流れている限り、もう過去の交点には二度と同じ気持を抱いたままで戻れない。そんな簡単なことに、最近、やっと私は気付いた。そして、私は割り切った。
生きるということは、人それぞれに与えられた時間を食いつぶしていくことであり、一期一会にも似た幾つもの時間軸と空間軸の交点を喪失していくプロセスだと言い換えることができる。そして、歳を取るということは、自分たちの「将来」が次第に「予定」に置き換えられ、「未来」が自然な形で「老後」に置き換えられるプロセスだとも言える。
人は悲しいかな、決して元に戻り得ない時間軸をすんなりと認めて、淡々と老いを迎えるほど強くはない。
自分の弱さを隠すための緩衝材として、人には時と場合によって、忘却と感傷という本能ともいえる能力が兼ね備えている。いわば、その能力は心の傷を癒すビタミン剤と傷口をふさぐ絆創膏のようなものだ。
図らずも今日、中学時代の友だちのブログを削除したあと、私はそのビタミン剤を飲みつつ、心の傷に絆創膏を貼ったのである。友のブログよ、さようなら。
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