ごめん、約束守れなくて
私は昨年9月、自分のブログの中で、「失われた十年」というタイトルで記事を書いたことがある。
記事を読んだ友だちから、「失われた十年」ではなく、「忘れたい十年」だろうと揶揄されたりもしたが、私がブログを開設した理由の一つは、サラリーマンをRitireした今、「失われた十年」は一体自分にとって何だったのか、いわば自分の生きた証しを探る為でもあった。昨年9月の私の記事は次のようである。
『私の六十二年間の人生の中で、何を考え何をしてきたのか振り返ってみても頭に浮かんでこない十年がある。
それは二十歳から三十歳までの十年間であり、親父が胃癌と宣告され大学を中退してから三菱重工の営業担当になるまでの十年間である。私の人生は、論語の中の「我十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。」を良し悪しは別にしてこの言葉をなぞった人生ともいえる。あの老子でさえ二十代は一言では言い表せないほど、多感な時期と言えるのではなかろうか。商社マンか新聞記者を目指し学業に励み、挫折し、何をしようか悩みぬいた十年とも言える。』
その後、私はこの自分のブログの記事の中で、「失われた十年」の間に起きたことを自分の記憶を呼び覚ましながら、随分記事を書いてきたように思う。
そんな「失われた十年」の中でも、私には人に決して語ったことがない半年間があった。毎年2月寒い夜になると、ふとそのことを思い出すことがある。
父親が癌で逝き、その10日後、母親が看病疲れと父親の葬式疲れがあったのか、持病の糖尿病に肺炎を併発し自宅で倒れ、夜中に救急車で病院に運ばれ、そのまま入院したことがあった。
一人となった私は昼、製造会社で働き、夜、愛知県刈谷市にある雀荘で働いた。麻雀は中部地区学生選手権で優勝し自分なりに自信があったこともあり、いわゆる「雀ボーイ」は楽しみながらできる私には最高のアルバイトのように思っていた。
私は会社が終わるとバスに乗り、雀荘のある町へ向かう。バス停を降り雀荘に行く途中、雀荘の通りの斜め前にある銭湯に行き、銭湯を出ると刈谷市駅前の大衆食堂で夕食を食べにいくのである。夜七時ごろ雀荘に着く。
私がアルバイトで働いていた雀荘は、この近辺のプロ麻雀士の溜り場でもあった。この地区にはプロの麻雀士が出入りする店は二軒あったが、雀荘の主人の麻雀に対する厳格さが評判になり、プロの麻雀士には人気がある店であった。一人一人三々五々集まってきて七時ごろにはほぼ満員になる。
当時、雀荘も風営法に引っ掛かり、11時が閉店である。カーテンを閉め、光が外に漏れないようにして、時間を延長しようとしても、12時が精一杯であった。それ以後はわずかな電灯の灯り漏れを嗅ぎつけ、必ず警察官が取り締まりにやってくる。12時までは大目に見るということなのだろうか、警察官が来るのはいつも12時過ぎである。
私は卓に入っていない限り、11時になると決まって近くにあるお茶漬け屋に出掛ける。お茶漬け屋といっても、カウンターやボックスもあり、奥には座敷が二部屋あって、まるで小料理屋という感じであった。私はカウンターでビール大瓶二本ほど飲み、海苔茶漬けを食べてから、雀荘の二階に戻るのである。
そんな生活が一ヶ月ほど続いた頃、私より五歳ほど年上の新しい仲居さんがそのお茶漬け屋で働き出した。二十七、八歳ではなかったろうか。私が今までに見たこともない器量の整った美しい人であり、立ち居振る舞いも洗練されており、私とは別世界の人のように思えた。店の女将さんに聞くところによれば、その新しい仲居さんは刈谷市に一軒しかないクラブに勤めていたとのことである。不自然を感じさせない手馴れた客さばきや言葉使いに、私は悉く感心しながら眺めていた。
ある日、いつも通りカウンターでビールを飲んでいると、夜だけ手伝いに出ているそこのお茶漬け屋の娘が私のところにやって来て、「美千代姉さんが呼んでるから、ISSAくん、早く座敷へ行って。」と私を呼びにきた。
私が座敷に行くと、固い表情をした背広姿の紳士が私にいきなり声を掛けてきた。「あんたが美っちゃんの弟か。俺は美っちゃんとは、美っちゃんがクラブに勤めていた頃からの知り合いだ。美っちゃんに弟がいると聞いて、顔が見たくなった。」と一方的にまくし立て、ビールを飲めと酔いのせいか、覚束ない手付きでビールを注いでくる。美千代姉さんはというと、いつもと変わらぬ様子で、「頂いたら。」と表情も変えずに言ってくる。コップのやり取りを二、三度終えてから私は座敷を下がってきたが、店の客が全て帰った後、美千代姉さんが私の側に来て、「また、しつこいお客や危ないお客が来たら、呼ぶから助けてね。」と言い、「わたし、もう水商売から身を引きたいんだ。」としみじみした口調で語る。それから、美千代姉さんは私の身の上を、それとなく聞いてきたように記憶している。この店の娘さんとは中学のときの同級生であり、美千代姉さんは、ある程度私のことは聞いていたのかも知れない。
それから何度、弟として座敷に呼ばれたのだろうか、店が閉まり、クラブ時代のお客に誘われ、美千代姉さんが寿司屋だとか、中華料理店に客と食べに行くときは、私は必ずボディーガードのように付いて行った。時には、お客からお金を握らされ、途中で帰れと脅迫じみて言われたこともあるが、絶対に私の側を離れないでねという美千代姉さんの言葉を私は忠実に守った。
四ヶ月が過ぎたある日、私はお茶漬け屋の女将さんに呼ばれた。女将さんは囁くように、「美千代は碧南市の会社社長の後妻に行くことに決まったから、三月から店に出ないよ。ISSAくん、知ってる?」と言われ、私はその言葉を聞くなり自分の体が固まっていくのが分かった。吃驚して身じろぎもしない私に、「その社長はまだ三十半ばだし、子供はいないから丁度いいんじゃない。」と女将さんは自分を納得させるように語り掛けてくる。ここのところもよく美千代姉さんに付き合っているのに、美千代姉さんはそんなことを一切口に出したことはなく、素振りさえも見せなかった。
三月も間近になった、雪でも降ろうかという二月の末、11時半頃、私が店に顔を出すと美千代姉さんが、「ISSAくん、店が終わったら、今日私にずっと付き合ってね。」と言われた。店が終わると美千代姉さんが私の所にやって来て、「お風呂入ってくるから、少し待っててね。」と言ったまま、店の奥に消えてしまった。もうすでに、店の親父さんと女将さんには言ってあったのか、美千代姉さんが風呂から上がるまで、珍しく二人で私の話し相手をしてくれた。 そこで「美千代がこの前の話を直接ISSAくんに話したいと言っていたから、私から聞いたことは内緒にしておいてね。」と女将さんに釘を刺される。
風呂から上がってきた美千代姉さんは、ガウンを着たままカウンターの私の隣に座った。親父さんと女将さんは役目はもう済んだとも言わんばかりに、お休みと挨拶をしながら、奥へ引っ込んでいった。
美千代姉さんは、初めて自分の身の上話をし出し、自分が一人っ子であること、年老いた両親をみるには、思い悩んだが、今の碧南市の社長に嫁ぐのが一番いいと思ったこと、水商売のいい加減さを目の当たりにして、今は精神的に疲れており、続けるのはもうこりごりだと思っているということ、社長の強引とも言える優しさが嬉しかったこと、そんな話をしみじみ話してくれた。
私も父親が癌になり、母親も入院しており、いずれ病院代も底がつくことや今の自分はふさわしくないと初恋の人と別れたことや大学に戻りたくてもなかなかできないことなど、多少誇張しながら話した覚えがある。
美千代姉さんは少し嗄れ声だが、唄は上手い。話が途切れそうになると、美千代姉さんはアカペラで囁くように歌ってくれる。何曲唄ってくれたのだろう。「越後獅子の唄」「サーカスの唄」「人生の並木路」 心の中を曝け出すように唄うそのときの美千代姉さんの唄が、今でも私の耳から離れようとしない。何時間一緒にいたのだろう。窓から白みかけた空が見える。五時間は過ぎていただろうか。
最後に、美千代姉さんは私に向かい、「ISSAくん、苦しくても大学へ戻って頂戴。そして学校の先生になって。私の最後のお願いだから。」諭すように必死で言ってくれる美千代姉さんに、私は黙って頷いてみせた。
別れ際の美千代姉さんの微笑んだ顔は、私が今まで見てきたどんな女性よりも美しかった。
帰りがけに見たガウン姿の美千代姉さんの背中が、泣いているように見えたのは何故だろう。
それから、私は昼の会社勤めを辞め、雀荘も辞めて、生活保障を受ける道を選んだ。週五日間、家庭教師をやり、奨学金を受け、大学へ戻ったがとうとう卒業できなかった。四十年も前のことである。
七年後、結婚前の女房と馴染みの焼肉屋に行ったとき、小学生の男と女の子を連れて来ていた美千代姉さんにバッタリ会ってしまった。家庭の主婦らしい清楚に変貌した美千代姉さんと目が合った途端、とめどなく流れ出す涙を私はどうすることもできなかった。女房は理由が分からず、ただうろたえるばかりであったが、私は人目も憚らず、声を出して泣いてしまった。
「ごめん、美千代姉さん、約束守れなくて。」私はそれだけ言うのが精一杯であった。
記事を読んだ友だちから、「失われた十年」ではなく、「忘れたい十年」だろうと揶揄されたりもしたが、私がブログを開設した理由の一つは、サラリーマンをRitireした今、「失われた十年」は一体自分にとって何だったのか、いわば自分の生きた証しを探る為でもあった。昨年9月の私の記事は次のようである。
『私の六十二年間の人生の中で、何を考え何をしてきたのか振り返ってみても頭に浮かんでこない十年がある。
それは二十歳から三十歳までの十年間であり、親父が胃癌と宣告され大学を中退してから三菱重工の営業担当になるまでの十年間である。私の人生は、論語の中の「我十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。」を良し悪しは別にしてこの言葉をなぞった人生ともいえる。あの老子でさえ二十代は一言では言い表せないほど、多感な時期と言えるのではなかろうか。商社マンか新聞記者を目指し学業に励み、挫折し、何をしようか悩みぬいた十年とも言える。』
その後、私はこの自分のブログの記事の中で、「失われた十年」の間に起きたことを自分の記憶を呼び覚ましながら、随分記事を書いてきたように思う。
そんな「失われた十年」の中でも、私には人に決して語ったことがない半年間があった。毎年2月寒い夜になると、ふとそのことを思い出すことがある。
父親が癌で逝き、その10日後、母親が看病疲れと父親の葬式疲れがあったのか、持病の糖尿病に肺炎を併発し自宅で倒れ、夜中に救急車で病院に運ばれ、そのまま入院したことがあった。
一人となった私は昼、製造会社で働き、夜、愛知県刈谷市にある雀荘で働いた。麻雀は中部地区学生選手権で優勝し自分なりに自信があったこともあり、いわゆる「雀ボーイ」は楽しみながらできる私には最高のアルバイトのように思っていた。
私は会社が終わるとバスに乗り、雀荘のある町へ向かう。バス停を降り雀荘に行く途中、雀荘の通りの斜め前にある銭湯に行き、銭湯を出ると刈谷市駅前の大衆食堂で夕食を食べにいくのである。夜七時ごろ雀荘に着く。
私がアルバイトで働いていた雀荘は、この近辺のプロ麻雀士の溜り場でもあった。この地区にはプロの麻雀士が出入りする店は二軒あったが、雀荘の主人の麻雀に対する厳格さが評判になり、プロの麻雀士には人気がある店であった。一人一人三々五々集まってきて七時ごろにはほぼ満員になる。
当時、雀荘も風営法に引っ掛かり、11時が閉店である。カーテンを閉め、光が外に漏れないようにして、時間を延長しようとしても、12時が精一杯であった。それ以後はわずかな電灯の灯り漏れを嗅ぎつけ、必ず警察官が取り締まりにやってくる。12時までは大目に見るということなのだろうか、警察官が来るのはいつも12時過ぎである。
私は卓に入っていない限り、11時になると決まって近くにあるお茶漬け屋に出掛ける。お茶漬け屋といっても、カウンターやボックスもあり、奥には座敷が二部屋あって、まるで小料理屋という感じであった。私はカウンターでビール大瓶二本ほど飲み、海苔茶漬けを食べてから、雀荘の二階に戻るのである。
そんな生活が一ヶ月ほど続いた頃、私より五歳ほど年上の新しい仲居さんがそのお茶漬け屋で働き出した。二十七、八歳ではなかったろうか。私が今までに見たこともない器量の整った美しい人であり、立ち居振る舞いも洗練されており、私とは別世界の人のように思えた。店の女将さんに聞くところによれば、その新しい仲居さんは刈谷市に一軒しかないクラブに勤めていたとのことである。不自然を感じさせない手馴れた客さばきや言葉使いに、私は悉く感心しながら眺めていた。
ある日、いつも通りカウンターでビールを飲んでいると、夜だけ手伝いに出ているそこのお茶漬け屋の娘が私のところにやって来て、「美千代姉さんが呼んでるから、ISSAくん、早く座敷へ行って。」と私を呼びにきた。
私が座敷に行くと、固い表情をした背広姿の紳士が私にいきなり声を掛けてきた。「あんたが美っちゃんの弟か。俺は美っちゃんとは、美っちゃんがクラブに勤めていた頃からの知り合いだ。美っちゃんに弟がいると聞いて、顔が見たくなった。」と一方的にまくし立て、ビールを飲めと酔いのせいか、覚束ない手付きでビールを注いでくる。美千代姉さんはというと、いつもと変わらぬ様子で、「頂いたら。」と表情も変えずに言ってくる。コップのやり取りを二、三度終えてから私は座敷を下がってきたが、店の客が全て帰った後、美千代姉さんが私の側に来て、「また、しつこいお客や危ないお客が来たら、呼ぶから助けてね。」と言い、「わたし、もう水商売から身を引きたいんだ。」としみじみした口調で語る。それから、美千代姉さんは私の身の上を、それとなく聞いてきたように記憶している。この店の娘さんとは中学のときの同級生であり、美千代姉さんは、ある程度私のことは聞いていたのかも知れない。
それから何度、弟として座敷に呼ばれたのだろうか、店が閉まり、クラブ時代のお客に誘われ、美千代姉さんが寿司屋だとか、中華料理店に客と食べに行くときは、私は必ずボディーガードのように付いて行った。時には、お客からお金を握らされ、途中で帰れと脅迫じみて言われたこともあるが、絶対に私の側を離れないでねという美千代姉さんの言葉を私は忠実に守った。
四ヶ月が過ぎたある日、私はお茶漬け屋の女将さんに呼ばれた。女将さんは囁くように、「美千代は碧南市の会社社長の後妻に行くことに決まったから、三月から店に出ないよ。ISSAくん、知ってる?」と言われ、私はその言葉を聞くなり自分の体が固まっていくのが分かった。吃驚して身じろぎもしない私に、「その社長はまだ三十半ばだし、子供はいないから丁度いいんじゃない。」と女将さんは自分を納得させるように語り掛けてくる。ここのところもよく美千代姉さんに付き合っているのに、美千代姉さんはそんなことを一切口に出したことはなく、素振りさえも見せなかった。
三月も間近になった、雪でも降ろうかという二月の末、11時半頃、私が店に顔を出すと美千代姉さんが、「ISSAくん、店が終わったら、今日私にずっと付き合ってね。」と言われた。店が終わると美千代姉さんが私の所にやって来て、「お風呂入ってくるから、少し待っててね。」と言ったまま、店の奥に消えてしまった。もうすでに、店の親父さんと女将さんには言ってあったのか、美千代姉さんが風呂から上がるまで、珍しく二人で私の話し相手をしてくれた。 そこで「美千代がこの前の話を直接ISSAくんに話したいと言っていたから、私から聞いたことは内緒にしておいてね。」と女将さんに釘を刺される。
風呂から上がってきた美千代姉さんは、ガウンを着たままカウンターの私の隣に座った。親父さんと女将さんは役目はもう済んだとも言わんばかりに、お休みと挨拶をしながら、奥へ引っ込んでいった。
美千代姉さんは、初めて自分の身の上話をし出し、自分が一人っ子であること、年老いた両親をみるには、思い悩んだが、今の碧南市の社長に嫁ぐのが一番いいと思ったこと、水商売のいい加減さを目の当たりにして、今は精神的に疲れており、続けるのはもうこりごりだと思っているということ、社長の強引とも言える優しさが嬉しかったこと、そんな話をしみじみ話してくれた。
私も父親が癌になり、母親も入院しており、いずれ病院代も底がつくことや今の自分はふさわしくないと初恋の人と別れたことや大学に戻りたくてもなかなかできないことなど、多少誇張しながら話した覚えがある。
美千代姉さんは少し嗄れ声だが、唄は上手い。話が途切れそうになると、美千代姉さんはアカペラで囁くように歌ってくれる。何曲唄ってくれたのだろう。「越後獅子の唄」「サーカスの唄」「人生の並木路」 心の中を曝け出すように唄うそのときの美千代姉さんの唄が、今でも私の耳から離れようとしない。何時間一緒にいたのだろう。窓から白みかけた空が見える。五時間は過ぎていただろうか。
最後に、美千代姉さんは私に向かい、「ISSAくん、苦しくても大学へ戻って頂戴。そして学校の先生になって。私の最後のお願いだから。」諭すように必死で言ってくれる美千代姉さんに、私は黙って頷いてみせた。
別れ際の美千代姉さんの微笑んだ顔は、私が今まで見てきたどんな女性よりも美しかった。
帰りがけに見たガウン姿の美千代姉さんの背中が、泣いているように見えたのは何故だろう。
それから、私は昼の会社勤めを辞め、雀荘も辞めて、生活保障を受ける道を選んだ。週五日間、家庭教師をやり、奨学金を受け、大学へ戻ったがとうとう卒業できなかった。四十年も前のことである。
七年後、結婚前の女房と馴染みの焼肉屋に行ったとき、小学生の男と女の子を連れて来ていた美千代姉さんにバッタリ会ってしまった。家庭の主婦らしい清楚に変貌した美千代姉さんと目が合った途端、とめどなく流れ出す涙を私はどうすることもできなかった。女房は理由が分からず、ただうろたえるばかりであったが、私は人目も憚らず、声を出して泣いてしまった。
「ごめん、美千代姉さん、約束守れなくて。」私はそれだけ言うのが精一杯であった。
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