家から徒歩で30分ほどのところに熱田社という神社がある
私の家から裏道を通っても徒歩で30分ほどかかるところに熱田社という神社がある。
会社をRetireした直後は、ときどき散歩がてらに行っていたが、熱田社には境内に駐車場があり、後期高齢者となった今は車で行くようになった。
本殿や庫裏までは平坦で、拝殿にお参りしてから、少し熱田社の周りを歩いてみる。
この神社には私の小さい時からの沢山の思い出が詰まっている。
私は生まれたときから、この神社の氏子である。小学生時代は境内でソフトボールに夢中になっていた。また夏休みには毎日のように、朝早く起きて、カブトムシを獲りに神社の裏のこんもりとした森の奥まで入り込んでいったものである。
秋祭りには、綿菓子を食べながら、露天商のテキヤのおじさんたちの啖呵売(たんかばい)の口上を聞いていた。その面白さに酔いしれて、露店の店じまいが終了するまで帰らず、暗くなって家に着くと、毎年のことながら、懲りもせず母親に叱られていた。
母親もまた、この神社には縁が深く、糖尿病で目が不自由になるまでの20年間ほど、神主にたのまれて、毎年、元旦の参拝者に振舞う甘酒を神社に作りに行っていた。
母親はそれ以外にも、5と10の日に開催される510(ごとう)の市の日には、必ず、私が寝ている間に野菜や魚などを買いに、この神社に行っていた。
私は成人してからも、25歳の厄年の歳には神社の境内で行われた馬追い行事に参加した。また、本厄の年の秋の祭礼には女房と共に集会所に行き、本厄の同級生たちと共同して、櫓の上から投げる餅を手ぬぐいサイズの布に包み込み、バケツにその餅を入れる作業を手伝いに行っていた。
そして、秋祭りには厄年の者は、その餅を櫓の上から4000個を投げる。
その日の夕方からは、神社の山車を担いで、子供会の子どもたちの綱に引かれながら、町内を練り歩いたものである。
また大晦日から元旦に掛けては神社の入り口にテントを張り、参拝者に枡に入ったお神酒を振舞い、一晩中、無病息災を願うための「ドンド焼き」の面倒を見たりしていた。「ドンド焼き」は、不要になった昨年のお守りやお札、しめ飾りなどを焼いて、無病息災を願う行事である。
今では火災防止のために「ドンド焼き」は中止となっている。
1年後の後厄が無事終わったときには、同級生との話し合いで旅行に行くのをやめて、積立金をすべてはたいて、境内の中庭の目立つところに記念碑を建てて、神社に奉納した。
自己満足とも思える行為ではあったが、その話し合いが功を奏して、43年経った今もその記念碑は神社の中庭に奉納者88名の名前が刻まれて、幾星霜を重ねている。
記念碑に刻まれた88名の中には、すでに地元を離れた者も半分ほどいるし、悲しいことだが、亡くなった者も数名いる。その記念碑を見ると、改めて歳月の重さをしみじみと感じる。
だが、何と言っても、私とこの神社の結びつきを決定的にしたのは、私と女房の結婚式をこの神社で行ったことである。
結婚式は9月3日であった。10月の友引や大安の日はすでに予定が入っていて、そのほかで日和のいい日は9月3日だけであった。
残暑が厳しいと思われたが、46年前のその日は、霧雨がしっとりと一日中、降り続いていた。ありがたいことに暑さを感じることはなかった。
そんなことを思い起こしながら、今日、熱田社に行ってみた。
きれいに掃き清められた境内の砂の上を、本殿の石の階段のところまで行き、ふと見上げてみると、本殿の佇まいは昔のままであった。
会社をRetireした直後は、ときどき散歩がてらに行っていたが、熱田社には境内に駐車場があり、後期高齢者となった今は車で行くようになった。
本殿や庫裏までは平坦で、拝殿にお参りしてから、少し熱田社の周りを歩いてみる。
この神社には私の小さい時からの沢山の思い出が詰まっている。
私は生まれたときから、この神社の氏子である。小学生時代は境内でソフトボールに夢中になっていた。また夏休みには毎日のように、朝早く起きて、カブトムシを獲りに神社の裏のこんもりとした森の奥まで入り込んでいったものである。
秋祭りには、綿菓子を食べながら、露天商のテキヤのおじさんたちの啖呵売(たんかばい)の口上を聞いていた。その面白さに酔いしれて、露店の店じまいが終了するまで帰らず、暗くなって家に着くと、毎年のことながら、懲りもせず母親に叱られていた。
母親もまた、この神社には縁が深く、糖尿病で目が不自由になるまでの20年間ほど、神主にたのまれて、毎年、元旦の参拝者に振舞う甘酒を神社に作りに行っていた。
母親はそれ以外にも、5と10の日に開催される510(ごとう)の市の日には、必ず、私が寝ている間に野菜や魚などを買いに、この神社に行っていた。
私は成人してからも、25歳の厄年の歳には神社の境内で行われた馬追い行事に参加した。また、本厄の年の秋の祭礼には女房と共に集会所に行き、本厄の同級生たちと共同して、櫓の上から投げる餅を手ぬぐいサイズの布に包み込み、バケツにその餅を入れる作業を手伝いに行っていた。
そして、秋祭りには厄年の者は、その餅を櫓の上から4000個を投げる。
その日の夕方からは、神社の山車を担いで、子供会の子どもたちの綱に引かれながら、町内を練り歩いたものである。
また大晦日から元旦に掛けては神社の入り口にテントを張り、参拝者に枡に入ったお神酒を振舞い、一晩中、無病息災を願うための「ドンド焼き」の面倒を見たりしていた。「ドンド焼き」は、不要になった昨年のお守りやお札、しめ飾りなどを焼いて、無病息災を願う行事である。
今では火災防止のために「ドンド焼き」は中止となっている。
1年後の後厄が無事終わったときには、同級生との話し合いで旅行に行くのをやめて、積立金をすべてはたいて、境内の中庭の目立つところに記念碑を建てて、神社に奉納した。
自己満足とも思える行為ではあったが、その話し合いが功を奏して、43年経った今もその記念碑は神社の中庭に奉納者88名の名前が刻まれて、幾星霜を重ねている。
記念碑に刻まれた88名の中には、すでに地元を離れた者も半分ほどいるし、悲しいことだが、亡くなった者も数名いる。その記念碑を見ると、改めて歳月の重さをしみじみと感じる。
だが、何と言っても、私とこの神社の結びつきを決定的にしたのは、私と女房の結婚式をこの神社で行ったことである。
結婚式は9月3日であった。10月の友引や大安の日はすでに予定が入っていて、そのほかで日和のいい日は9月3日だけであった。
残暑が厳しいと思われたが、46年前のその日は、霧雨がしっとりと一日中、降り続いていた。ありがたいことに暑さを感じることはなかった。
そんなことを思い起こしながら、今日、熱田社に行ってみた。
きれいに掃き清められた境内の砂の上を、本殿の石の階段のところまで行き、ふと見上げてみると、本殿の佇まいは昔のままであった。
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