私が綴る文章はますます稚拙度が増してきている

 私は2006年の6月から、ほとんど毎日、このブログに記事を書き続けてきた。もうすぐ丸15年が経過する。
 今では、洗顔、歯磨き、3度の食事と同じように、私の避けては通れないルーティーンになっている。
 毎日、やっとの思いで書き込んでも、翌日冷静に読み返してみると、助詞の使い方は言うに及ばず、三人称で書いていたはずの文がいつの間にか一人称の文になっていたり、漢字変換が自分の意図した漢字に変換されていなかったりしている。
 情けないことだが、歳を取ったことを認めざるを得ない。
 昨日も午前7時45分から12時半まで公園の仕事があり、午後1時半から午後4時まで、シルバー人材センターの理事会があった。何とも慌ただしい1日であった。
 その帰り道、今日こそはブログをジャンプさせてもいいのかなと思うのだが、いつの間にか昨日もまたPCの前に座り込んでいた。
 私は座っていて、ふと毎日書き込んでいる自分のブログの文章はいったい誰に読んでもらいたいと思いながら書いているのかと、疑念が湧いてくることがある。
 中学高校からの友だちと互いに刺激し合いながら、今日まで15年近く、ほぼ毎日持続的にブログの記事を書き込んできた。
 果たして、誰に読んでもらいたかったのであろうか。改めて、自分に問うてみる。
 中学高校時代からの友だちはと言うと、自分のブログについて【私のことを知っている人に、私が伝えたいことを書いています。私は不特定の多数の人々のことは想定していません。私の日常を私を知っている人たちに、手紙のように書いているに過ぎません】 というメッセージを発信している。
 翻って、私のブログはと言うと、これまで76年以上も生きてきて、点でしか思い出せない自分の過去を拾い集めて、まるで【人生あがり】というジズソーパズルをしているような作業である。
 それはまるで今も自分の手元にあり、脈絡がありそうだと感じつつ確証のない膨大な数のピースを試行錯誤しながらも一つ一つ嵌め込んでいく作業でもある。
 言い換えれば、自分とはいったい何だったのかを突き詰める作業と言い換えてもいいような気がする。
 ブログは個人的な日記という形式を取りながらも、こうして文章を綴るということは、必ず読ませたいという相手があるはずで、いかに自分のために書いているといっても、その場合でも書き手と読み手は存在し、私の場合、極論を言えば、読ませたい相手は自分自身ということになる。
 私にとってブログに記事を書き込むということは、現実を日常的に生きている自分とそれを俯瞰しているもう一人の自分との対話を正直に書き綴っていることになる。
 だからと言って、言葉が包含している共通認識や共通感覚、そして共通のコンセプトを飛び越えて、自分以外には誰も理解できない文章を書いてもいいということにはならない。
 そこが文章と符牒や暗号と決定的に違う点でもある。
 やはり、自分との対話というブログであっても、不特定多数の人に、プロであれアンチであれ、自分の書いた文章が理解してもらえるということが優先されるべきである。
 そして、書き手は読者をはっきり見定めていなければならない。
 そう言った意味からすると、中学高校の友だちのブログの読ませたい相手は、【私のことを知っている人に、私が伝えたいことを書いています】とはっきりしている。
 私の場合はと言えば、読ませたい相手の一番手は私自身である。
 そうした読み手の照準が決まってくると、これまで通り、私の独りよがりのマイペースぶりはより際立ち、ますます独断的になってくる。
 逆説的に言えば、私が綴る文章はますます稚拙度が増してくる。
 半面、その稚拙度に対する認識の薄さが、私に毎日、ブログの記事を書かせる原動力となっているのかも知れない。

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