落語「授業中」を聞いて、私なりに出した結論はまた別であった

 今日、本棚を整理していると「声に出して読みてゃあ名古屋弁」(二代目勤勉亭親不孝著、すばる舎)という本が出てきた。
 東海市の古書店で購入した本である。
 私はその本を購入するとき、<勤勉亭親不孝>という芸名が受け継がれていることに驚いていた。
 その懐かしい芸名に触れたことで、私の気持は一気に56年前の自分に戻っていった。
 昭和39年、私は名古屋にある南山大学の文学部英文科に入学した。
 最初の授業のとき、たまたま隣りの席になった男子の同級生と気が合い、それからはいつも一緒に授業を受けていた。
 入学してから3ヶ月ほどが経ったころ、その同級生に誘われて、2回生、3回生の先輩たち3人を加えた5人で「落研(オチケン)」を立ち上げることになった。
 その同級生は自分の芸名をどうしようかとさんざん考えに考え抜いた挙句、シャレのつもりで付けた芸名が<勤勉亭親不孝>であった。「声に出して読みてゃあ名古屋弁」の著者は、その<勤勉亭親不孝>を受け継いだ二代目ということになる。
 だが、3ヶ月ほどで、私は「落研(オチケン)」を退会した。
 新しく「文芸部」を立ち上げるためだった。
 改めてネットで、初代<勤勉亭親不孝>の本名を入れて探索してみると、大学卒業後、30数年教師をしていたようである。その後、教師を退職してからは名古屋で「落語を聞く会」の世話人をしていたらしい。
 彼のように、本腰を入れて落語に取り組み、高座に上がって、自分のパーフォーマンスで客が敏感に反応した経験を一度でも味わってしまうと、その臨場感がいつまでも忘れられず、なかなか落語と縁が切れないようである。
 彼とは、よく一緒に名古屋の大須演芸場に行ったが、特に大の月に開催される余一会が東京落語大会であるときは、必ず一緒に出掛けて行ったものである。
 2人とも当時の2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)のファンで、とりわけ、師匠の「授業中」が好きだった。
 師匠の「山のあな」三部作と呼ばれる落語には、必ず吃音者が出てくる。
 会話の中でその吃音者のしゃべりが誇張されたり、「山のあなた」の詩を朗読するときは言葉がつっかえて、読めなくなったりしてしまう吃音者も、浪曲で節を付けると言葉がすらすらと出てくる。その三遊亭歌奴師匠の浪曲もまた玄人裸足ときている。本来なら、笑えない状況が見事にデフォルメされて、次第に笑いが増幅されていく。
 歌奴師匠は、若い頃に吃音者だった経験があり、その演技にはリアリティーがあり、底知れぬ説得力があった。
 その「授業中」の中に出てくるカール・ブッセの「山のあなた」という詩は、特に私には印象深かった。
 高校時代、現代国語の教科書の中で習った上田敏訳の詩集『海潮音』に収録されていた詩である。
 私は、師匠がこの詩を題材にして笑いのネタにしたことに対して、何の違和感も持たなかった。この「授業中」という話は、三遊亭歌奴師匠の実体験をもとに作られた話だと思っていたからだ。
 おそらく、師匠はこの詩をこよなく愛していたのではないだろうか。何度も師匠の「授業中」を聞いた私の印象である。
 と同時に、当時の私はカール・ブッセの「山のあなた」という詩の意味についても考えさせられた。
 山のあなたに何かを求めるために<われひとと尋とめゆきて>、何もしないまま、何も感じないまま帰ってきて、さらなる向こうに幸せがあると想像する。
 それが、人間の性だと言っていい。
 人間はさまざまな未知なるものに感動する。人間を取り巻く環境は未知なる物のオンパレードである。「幸(さいはひ)」は山のあなたにあるのではなく、身近な未知なる物や未知なる人との出会いが引き起こす感動の中に存在している。
 それが何度も三遊亭歌奴師匠の「授業中」を聞いて、私なりに出した落語とは別の結論であった。

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