一刻も早くコロナ感染症が終息してほしいと願うばかりである

 今朝7時に起きたときには、もうすでに女房はJAから借りている「自家菜園」に出掛けて行ったあとだった。
 前日にその旨を聞いていたので驚きはしなかったが、いつものヨーグルトにバナナという朝食を止めて、今朝は自分で目玉焼きを作ろうと思い立った。
 だが、オリーブオイルが見当たらず、ちょっぴり残念という気持のまま、子どもの頃のように卵かけご飯で済ませてしまった。やはり、何となく侘しい。
 午前中はインターネットで自分のFACEBOOKに写真と記事をUPしたあと、近くの大倉公園に散歩に行ったが、最近、俄かに心の中に湧いてきた空虚感が埋まらず、そのいわれを自分に問い掛けてみる。
 私はこれまで、エンドレスで続く日常生活を「当たり前」として受け入れてきた。
 今更だが、自分にとっての「当たり前」とはいったい、何をすることなのだろうと、最近になり考えるようになった。
 サラリーマン現役時代は、多少マンネリ化していたとは言え、「当たり前」のように朝6時に起きて、顔を洗って歯を磨き、コーヒーをすすりながら、トイレを済ませ、会社に出掛けていく。
 そして、自分が日々自分に課したノルマに向かって、目一杯に仕事をする。当然のように、私はそれが「当たり前」だと思い、ささいな疑念さえも持ち込むことはなかった。
 残業規制があったにしろ、サービス残業をしてまでも、わずかでも客先に迷惑が掛からないように、次の日のために備えて、夜遅くまで掛かっても仕事を完了させる、それを「当たり前」の行動として自分を納得させてきた。
 週に2日ほどは近くの居酒屋で酒を飲み、同じ家に住みながら、女房とは互いの空間を尊重して、一歩引き気味に気を遣いながら、その日、その日を「当たり前」として暮らしてきた。
 だが、会社をRetireした今の自分の行動のどこの部分が、「当たり前」の行動なのであろうか、私にはそれが分らなくなってきている。
 特に去年からのコロナ禍で、私の混乱はひどくなるばかりである。
 サラリーマン時代の日々の方が濃密だったのであろうか。いや、そんなことはない、少なくとも私は、自由度が増したであろうRetire後の方が、自分の一日一日が濃密になっているに違いないと信じていた。
 歳を取り、社会に対して、それなりの節操が備わってくると、自由度はあっても、「なんとなく」過ごす時間が増えてくる。すると、否応なしに一日一日が淡白なものとなり、あたかも、自分の生き尽く先は水平線上に消えゆく2本の鉄路のように、ただ、ぼんやりと霞んでいるだけで、はっきり自覚できない。
 Retire後の自分の乗った列車は、どこに向かって行こうとするのか、果たして、前進しているのか、後退しているのか、それさえも自覚できぬままに、「なんとなく」時だけが過ぎていく。
 やはり、今の自分にとって、そうした日々が決して「当たり前」であってはならない、私はそう思っている。
 ただ、悲しいかな、これまで意地という【つっかい棒】を頼りに生きてきたツケが表に現れて、順応性は乏しくなり、成功体験を捨てきれない夢遊病者のように、過去を未だに清算できず、嫌なものは見ようとはしない。その瞳は曇り、変化を好まず、立ち止まってばかりで、一向に自らを変えようとはしない。
 そんな固定観念に凝り固まっている自分を、それこそ、ぶち破り変革させるのが、これからの自分の「当たり前」の行動としなくてはならない。
 それには、今まで会ったことのない人に出会い、今まで行ったことのない所に行き、新しい自然に囲まれて、自分の感性を磨き上げることしかないのではないか、だが、それもコロナ禍で、自分の気持のままにはならない。
 私は自分の感性を磨き上げるために去年の3月から、このコロナ禍の中で毎日FACEBOOKに写真と記事をUPし、ブログの記事も1400字を目標に14年間、1日も欠かさずUPしてきた。
 それとて1日のうちの2時間ほどであり、私にとって「当たり前」の行動として、自分を納得させるには時間が短すぎる。そして、俄かに心の中に噴き出してきた空虚感はなかなか埋まりそうにない。新たな行動を起こすには、今はただ一刻も早くコロナ感染症が終息してほしいと願うばかりである。
 はたして、これって贅沢なのであろうか。

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