屋台文化の消滅とともに、私の中の幾つかの思い出も霧消していった
私は1944年生まれで、満76歳である。
20代の頃には、会社の同僚と安酒飲んで、「人生を大いに語ろう」とか声高に叫びながら、将来の夢を熱く語った。そして酔うほどに世の中を憂いながら、自己満足に酔いしれた唄を歌ったものである。
最終的に寄るのが屋台であった。
屋台が、私が住んでいるこの地域から、徐々に消えてしまったのは、いつ頃だったのであろうか。
名古屋にも、屋台華やかなりし時代があった。昭和40年代の初めごろである。
私の大学生時代には、名古屋駅近くの柳橋や、栄から千種に抜ける桜通りの両側にはそれぞれ、午後7時を過ぎると、百軒近くの屋台が並び、夏のビールの時期にはネクタイを緩めた仕事帰りのサラリーマンで、夜遅くまでゴッタ返していた。あの屋台はどこに消えていってしまったのだろうか。
おそらく、治安の問題とか、風紀の乱れとか、そんな理由で屋台の営業が禁止されていったのではなかろうか。私たち貧乏学生には、安酒を呷る場がなくなり、本当に寂しい思いをしたことを覚えている。
名古屋の屋台営業が禁止されてからは、私の安酒を飲む場所は、専ら、愛知県刈谷市の国鉄刈谷駅前広場の屋台へと変わっていった。その頃、刈谷駅前には、5軒の屋台があり、それぞれ馴染み客を確保し、いつ行ってもそうした客で満員であった。
私も、いつしか、馴染みの屋台ができて、サラリーマンになってからの数年間は、1週間に1度は必ず通っていた。
私は刈谷駅前の屋台で、さまざまな人たちと出会った。
その多くは女性にふられた男の人で、未練たっぷりの荒れた飲みっぷりで屋台の店主に諭され、終電車に時間に合わせて駅に向かって行った。
常連の恋人同士もいた。そして近くのスナックで働く着物姿の30代のホステスもいたが、その酔い方はとても上品とは言えなかった。
中には刈谷でも名の知れた小料理屋で働いていた板前が、女将と仲違えをして、店を飛び出してきたと言い、「俺は包丁1本さえあれば、どこでも飯は食っていけるから、東でも西でも東海道線で行けるとこまで行って、そこで働くことにする」と大見得を切っていた。私はそれって自慢?と首を傾げていた。
世の中にはさまざまな生き方をしている人たちがいる。そうした人たちの行動を目にするのは面白かったが、私にとってはその人たちの行動は概ね、反面教師と言ってよかった。
そのうち、刈谷駅前の屋台も、市の条例で営業禁止となった。
私はしばらくして、知立市の駅周辺にこの近辺の屋台を集結させ、「屋台村」を作ることとなり、刈谷駅前の屋台もその「屋台村」で復活した。
名鉄本線と三河線、そして、この地域の農地に水を引くために作られた「明治用水」とに囲まれた三角形の区域、言わば、陸の中州のようなエリアに100軒近い屋台が集約された。その壮観さや珍しさも手伝ってか、ある時期、名鉄本線を利用する人たちと、この近辺に工場を持つトヨタグループで働く人たちで活況を呈し、流しのギター弾きも数人いて、各屋台を巡っていた。
私は馴染みのギター弾きから、五木ひろしさんの「裏通り」や岡晴夫さんの「逢いたかったぜ」を口移しで教えてもらった。
私も、月に何度か、同じ年頃の職場の仲間とともに、知立駅前に出掛けて行き、刈谷駅前から引っ越した馴染みの屋台で酒を飲んだ。いくら飲んでも、酔っ払っても千円札を3枚持っていれば、事足りた時代でもあった。
だが、数年後、景観や治安の問題で「屋台村」は、閉鎖という憂き目にあってしまった。
庶民を支え続けた屋台文化の消滅とともに、私の中の幾つかの思い出が、粉々となって、霧消していった。
今から50年以上も前のことである。
20代の頃には、会社の同僚と安酒飲んで、「人生を大いに語ろう」とか声高に叫びながら、将来の夢を熱く語った。そして酔うほどに世の中を憂いながら、自己満足に酔いしれた唄を歌ったものである。
最終的に寄るのが屋台であった。
屋台が、私が住んでいるこの地域から、徐々に消えてしまったのは、いつ頃だったのであろうか。
名古屋にも、屋台華やかなりし時代があった。昭和40年代の初めごろである。
私の大学生時代には、名古屋駅近くの柳橋や、栄から千種に抜ける桜通りの両側にはそれぞれ、午後7時を過ぎると、百軒近くの屋台が並び、夏のビールの時期にはネクタイを緩めた仕事帰りのサラリーマンで、夜遅くまでゴッタ返していた。あの屋台はどこに消えていってしまったのだろうか。
おそらく、治安の問題とか、風紀の乱れとか、そんな理由で屋台の営業が禁止されていったのではなかろうか。私たち貧乏学生には、安酒を呷る場がなくなり、本当に寂しい思いをしたことを覚えている。
名古屋の屋台営業が禁止されてからは、私の安酒を飲む場所は、専ら、愛知県刈谷市の国鉄刈谷駅前広場の屋台へと変わっていった。その頃、刈谷駅前には、5軒の屋台があり、それぞれ馴染み客を確保し、いつ行ってもそうした客で満員であった。
私も、いつしか、馴染みの屋台ができて、サラリーマンになってからの数年間は、1週間に1度は必ず通っていた。
私は刈谷駅前の屋台で、さまざまな人たちと出会った。
その多くは女性にふられた男の人で、未練たっぷりの荒れた飲みっぷりで屋台の店主に諭され、終電車に時間に合わせて駅に向かって行った。
常連の恋人同士もいた。そして近くのスナックで働く着物姿の30代のホステスもいたが、その酔い方はとても上品とは言えなかった。
中には刈谷でも名の知れた小料理屋で働いていた板前が、女将と仲違えをして、店を飛び出してきたと言い、「俺は包丁1本さえあれば、どこでも飯は食っていけるから、東でも西でも東海道線で行けるとこまで行って、そこで働くことにする」と大見得を切っていた。私はそれって自慢?と首を傾げていた。
世の中にはさまざまな生き方をしている人たちがいる。そうした人たちの行動を目にするのは面白かったが、私にとってはその人たちの行動は概ね、反面教師と言ってよかった。
そのうち、刈谷駅前の屋台も、市の条例で営業禁止となった。
私はしばらくして、知立市の駅周辺にこの近辺の屋台を集結させ、「屋台村」を作ることとなり、刈谷駅前の屋台もその「屋台村」で復活した。
名鉄本線と三河線、そして、この地域の農地に水を引くために作られた「明治用水」とに囲まれた三角形の区域、言わば、陸の中州のようなエリアに100軒近い屋台が集約された。その壮観さや珍しさも手伝ってか、ある時期、名鉄本線を利用する人たちと、この近辺に工場を持つトヨタグループで働く人たちで活況を呈し、流しのギター弾きも数人いて、各屋台を巡っていた。
私は馴染みのギター弾きから、五木ひろしさんの「裏通り」や岡晴夫さんの「逢いたかったぜ」を口移しで教えてもらった。
私も、月に何度か、同じ年頃の職場の仲間とともに、知立駅前に出掛けて行き、刈谷駅前から引っ越した馴染みの屋台で酒を飲んだ。いくら飲んでも、酔っ払っても千円札を3枚持っていれば、事足りた時代でもあった。
だが、数年後、景観や治安の問題で「屋台村」は、閉鎖という憂き目にあってしまった。
庶民を支え続けた屋台文化の消滅とともに、私の中の幾つかの思い出が、粉々となって、霧消していった。
今から50年以上も前のことである。
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