外山滋比古氏は【大きなものに頼らず、くみしない気風】は亡くなるまで、持ち続けていたようである

 今日の中日新聞の朝刊コラム「中日春秋」に次のような文章があった。
 「あるとき、<オカイコさんを見倣(なら)って生きていこう>と、心に決めたそうだ。蚕は桑の葉を旺盛に食べて純白の糸を吐く。<秀才といわれた人が、すこし赤い本を読むと、赤いことばを吐く。黒い本を読めば、吐く糸は黒である…色のついたものは、ひととき美しく思えても、やがて色あせる>(『三河の風』)」
 『三河の風』は7月30日に96歳で亡くなった外山滋比古氏の著作である。
 さらに「中日春秋」は外山滋比古氏について語る。
 「(外山氏は)三河地方は愛知県寺津町、現在の西尾市に生まれた。家康を生んだ地方には、明治政府に冷遇された意識が残っていた。大きなものに頼らず、くみしない気風『三河の風』に吹かれてきたと自認する。
 老境について、この先の世の中について、風にたなびく白い絹のような新鮮で色あせない言葉をもう少し聴きたかった。」
 『三河の風』を著した外山滋比古氏は、上述のコラムが述べているように、1923年愛知県幡豆郡寺津町(現西尾市)生まれの人で生粋の三河人である。
 私は尾張と三河の境を流れる境川に隣接する大府市の出身なので、尾張と三河との間に、それほどの違いを感じたことはなかった。だが、外山氏によれば、三河人にには【大きなものに頼らず、くみしない気風】があり、それが『三河の風』だと言うのだが、少しお国自慢をしているようにも思える。
 三河地方には昭和になっても高等学校(旧制)もなく、中学校(旧制)の8校のうち、三河地方には二中の県立岡崎高校と四中の県立時習館高校、そして八中の県立刈谷高校の3校がある。
 外山氏は愛知県第八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)の卒業生で、実を言うと私の大先輩の同窓生でもある。
 還暦を過ぎたころ、中学からの友だちと2人で、母校の刈谷高校を訪れたことがある。
 高校生2年生のとき、友だちは新聞部の部長で、私は文芸部の部長をやっていた。風の便りにその当時、新聞部が発行した高校新聞も年2回、発行していた文芸部の部誌も校内のどこにも保存されていないと聞かされ、確認のために母校を訪れたことがある。
 教員室にいた女性に、自分たちはこの学校のOBで在校生のときに作っていた新聞や文芸部の部誌が今でも残されているかを確認に来たと事情を説明すると、同僚の男性職員が校舎の端にある倉庫まで案内してくれた。
 記憶によれば、友だちの発行した新聞の一部は残っていたが、私の所属していた文芸部の部誌はまったく残されていなかった。
 ただ、旧制中学時代の卒業生である外山滋比古氏は母校に講演のために訪れたことがあり、そのとき自分の著作を寄贈したとのことで、外山氏の著作が数冊、倉庫に置かれていた。その中にはベストセラーの『思考の整理学』もあった気がする。
 確か、男性職員の人はそのほかの著作は図書館に収蔵しているとも語っていた。
 いずれにしても、外山滋比古氏は【大きなものに頼らず、くみしない気風】は亡くなるまで、持ち続けていたようである。

 そう言えば、私の好きな詩人・茨木のり子さんも大阪府大阪市生まれで、外山氏と同じく、愛知県西尾市育ちである。
 私は茨木のり子さんの詩や著作が好きで、このブログでも何度も取り上げている。
 茨木さんも自分の主張を曲げない生き方をした人で、その詩は私にとって、沈みがちになる自分の心の拠り所になっていた時期もある。
 これはまったくの余談だが、今何かと話題の高須クリニックの高須克也氏も愛知県幡豆郡一色町(現在の西尾市)の生まれで、高須家は代々、医を生業としてきた家系である。
 10年ほど前、女房にせがまれて、3回ほど三河一色の「さかな市場」に行ったことがあるが、その道中に今でも生家の病院が建っている。

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