中学3年生の担任が作ったクラス会誌には思い出が詰まっている

 中学からの友だちは、担任が作ってくれたクラス会誌「麦の歌」の1号・2号・3号の復刻版を完成させて、クラス会に出席したクラスメートたちに手渡そうと何かと心配りをしている。
 余りに多くの時が過ぎて、もはやそのクラス会誌を手元に残している人たちに少ない。
 2014年のクラス会の時に、彼は初めて、そのクラス会誌を復刻増刷して持参してくれた。今回の8月26日のクラス会のときにも、彼はまた復刻版を持ってきて、クラスメートたちに配っていた。彼は今でも中学時代の絆を大事にしている証しでもある画像
 実は私も1号と3号は手元に残っていたが、2号は持っていない。
 私は無遠慮にも声を出して、彼の手の中にある第2号のクラス会誌に手を出していた。
 第2号の発行日は昭和36年になっている。私はこの時期から5年ほど、クラス会には出席していなかった。そんなわけで、その間に開催された2回のクラス会では、この第2号を私に手渡す機会がなかったものと思われる。
 だが、なぜか第2号の寄稿文の中には私の文章も載っている。何を考えていたのか、読むに耐えがたい文章で、こっそり一人で読んでいても顔が赤らむほどなので、このブログでは紹介できない。

 第1号の発行は昭和35年で、第2号は上述のように昭和36年である。ところが3号は昭和42年となっている。なぜか6年の間がある。
 担任が中学3年生を受け持ったのは私たちのクラスが初めてだが、その後、担任が教務主任になるまで、中学3年生を3度受け持ったと、担任の本人から聞かされていた。おそらく、担任はその3度受け持ったクラス会誌も作っていたことが予想される。
 このクラス会誌はガリ版づくりである。かなり根気のいる作業であり、製本まで考えると手間暇は半端ではなく、教師をやりながら、こつこつとガリ版に文字を刻んでいたことに思いを馳せると、なぜか切なくなってくる。
 つまり、第2号から3号まで、6年も間が開いたのは、いつくものクラス会誌の作成で、単に忙しかったからのようである。
 それでもクラス誌の制作をしようとしたのは、担任は自分史を作るような決意で、クラス会誌を作成して自分の存在証明として残しておきたかったのかも知れない。現に60年後を経過しても、私たちの手元にはクラス会誌が残っている。

 クラス会誌「麦の歌」の表紙には、クラスでいちばん頭の良かった女性のクラスメートの絵が印刷されている。
 私は担任が亡くなった1週間後に自宅に伺ったとき、息子さんから担任が3年生を受け持ったクラスごとにアルバムを作っていたことを知らされた。早速、そのアルバムを見せてもらった。
 私たちのクラスのアルバムの第1ページには、上述の表紙の絵を描いた女性クラスメートの大きな写真が貼ってあった。私はここで、彼女は私たちのクラスメートの中で、担任の第一のお気に入りであり、自慢の生徒だったことを知る。
 私は勉強を継続するのが苦手で、試験の結果が芳しくないと、担任は彼女を引き合いに出して、私にたびたびハッパをかけた。
 当時はどの家庭の貧しく、しかもそばで兄弟姉妹が騒いでいる中で勉強するのには、かなり集中力が必要だった。彼女もそうした環境で、勉強して優秀な成績を出しているのに、一人っ子のオマエには充分過ぎるほど勉強できる環境にあるのに、なぜ努力しないのかと叱られた。
 今日、第2号のクラス会誌を開きながら、私を叱る担任の姿を思い出していた。

 そう言えば、2014年に開かれたクラス会のとき、幹事から、私たち3年3組の名簿が渡された。
 私は今日、改めてその名簿を見ていたが、住所不明が9名、死去したクラスメートは5名となっていた。結局、私たちのクラスは男子25名で女子29名の計54名なので、連絡が取れるのは40名ということになる。
 8月26日のクラス会では、17名が集まった。はたしてそれが盛況かどうかは別にして、私は少なくても仲の良かったクラスメートに会えて、充分におしゃべりができて、楽しかった。
 来年もまたクラス会が開かれるということだ。誰ひとり、欠けることがないように祈るばかりである。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック