急に、男の頬を涙がとめどなく流れ出した

 和夫はその中学校に行くのは、何年ぶりかを指折り数えていた。確か8年ぶりのはずだ
 彼はその中学に行くのが嫌でたまらなかったが、一大決心をして行く気になったのは、繁子がその中学で特殊学級の教育実習をしており、その最終日にぜひとも話したいことがあるから来てほしいと電話をもらったからだ。
 約束は午後3時であった。
 和夫は本来、何もなければその中学を卒業していたはずだった。
 彼が中学1年生になったばかりの頃、威圧的な柔道部顧問の先生の態度に我慢ならず、あからさまに反抗的な態度を取ったことで、みんなの目の前で往復ビンタをされてしまった。だが、彼はそれからも懲りずに、その先生に対して反抗的な態度を改めようとはしなかった。
 すると、だんだん周囲の目が冷たくなり、無言の圧力に耐えかねて、夏休み明けから登校拒否をするようになってしまった。その経緯と事情を聞いた隣市の中学校の校長が、彼は自分が預かるからと申し出てくれて、和夫は中学1年の2学期から、その中学に転校していった。
 中学転校後は、人間不信も徐々に回復に向かい、やがて地元の進学高校に進み、一浪しながらも名古屋の私立大学に入学した。
 和夫が大学3年生のとき、たまたま隣り町の中学校で、3週間の間、一緒に教育実習したのが繁子であった。
 和夫と繁子は、その3週間の教育実習で、仮担任をしていた生徒たちを引率して、渥美半島に遠足にも行ったし、登校日には校長室の中に設けられた部屋で指導教案の書き方や板書の仕方など、色々アドバイスをし合ったりしていた。
 教育実習が終わってからも、さまざまな面で気が合い、互いの大学が名古屋であり、しかも場所が近かったこともあって、何か理由をつけては、繰り返しデートをするようになった。
 和夫は文学部で一般の教師を目指し、繁子は福祉大学でソーシァル・ワーカーを目指していた。そして、繁子は大学4年間の総仕上げとして、和夫が転校する事由を起こした中学校で、特殊学級の教育実習をすることになった。
 昭和40年当時、知多地区では特殊学級があったのはその中学校しかなく、転校の事情を知らない繁子は、教育実習の最終日にその中学に来てほしいと、和夫を呼び出したのである。
 和夫は中学の正門の前で、しばらく佇んでしまった。
 当時を知る先生たちは、もうとっくにいなくなっているはずなのに、まだ彼にはその中学に行くのにはかなりの抵抗があった。
 彼は大きく息を吸って正門をくぐって行った。
 何度も担任の先生に呼びつけられた職員室の扉を引いた。
 その奥の方に、白髪交じりの男性が教頭という名札の付いた机に座っているのが見える。
 「同じ大学で福祉を勉強している長坂繁子の友だちです。彼女が最後の授業を見て、感想を言ってほしいというのでやって来ました」と少しの嘘を交えて言うと、意外にもその先生は微笑みながら、彼に話しかけてくる。
 「長坂先生から、聞いております。どうぞ、どうぞ。場所は一番奥の教練の1階で、道路側の教室です。普通の教室とは違って、机も椅子もありませんし、クラスでウサギやらドジョウやら、色んな生き物を飼っていますから、ビックリしないようにしてくださいね」と丁寧に説明してくれる。
 行ってみると、繁子はもう最後の授業を始めていた。
 彼女は一人の男の子にゆっくりと因果を含めるように話し掛けている。
 しばらく聞いていると、その男の子はどうしてもカラスが飼いたいと彼女に訴えている様子である。
 繁子は、カラスは雑食だから、この教室で飼うと今みんなが飼っているドジョウやフナ、カエルなども食べてしまうかも知れないからダメだと、頻りに説得している。男の子はそれでもなかなか納得せず、涙が流しながら「飼いたい。飼いたい」と呪文を唱えるように訴えている。
 もし、ドジョウ、フナ、カエルなどがカラスに食べられたら、みんなが悲しむと、繁子はクラスの子の名前を一人ひとり、具体的に上げて、根気よく説得し続ける。やっと、その男の子も納得したようだった。
 結局、繁子はその説得に時間を費やして、予定されていた授業のカリキュラムをこなすことができなかった。
 果物の絵の裏に、その果物の名前が書いてあるパネルを片付けながら、繁子は和夫の方を振り向いて、軽く手を振った。これで授業は終わりのようだ。
 繁子は大府から半田まで、武豊線を利用して通っていた。
 中学校から大府駅までは、およそ3kmの道のりがある。いつもなら、繁子は子どもたちの目に気を遣って、少し距離を置いて歩いていたが、その日は最後の授業が終わったことで、子どもたちの目も気にせず、和夫の肩に寄り添うように歩いた。
 「カズくん、ごめんね。Tちゃんのことがあって、本来の授業ができず、ほんとうにごめんね」
 「いいよ、それより、話って何?」
 「カズくんって、養子でしょ?カズくんに言ってなかったけれど、わたしも養子なの。今の家にいるのは、血は繋がっていない両親とわたしだけ!」
 「それで?」 和夫は不吉な予感がした。
 「わたしもあなたも、今の家の苗字を絶やさないためにもらわれてきたのよ、分る?どんなに気が合って、互いにどんなに好きになっても、家を背負った者同士結婚できないのよ。ここまで育ててもらった親の恩は絶対に返さなきゃならないのよ、わたしたちは!」 
 和夫の背中を信じられない速さで悪寒が走っていった。
 「オレは友だちで、これからも付き合っていきたいよ」 彼は必死だった。
 「これ以上付き合っていくとわたし、親を裏切ってしまいそうなの。だから、今日で二人の関係はオシマイにしたいの!」 
 最後の方の言葉は、はっきりと和夫の耳に届いてこない。
 いつの間にか、目の前に2階建ての駅舎が見えてきた。 
 繁子は、これまでの何かを振り切るように、駅前のロータリーの弧に沿って、勢いよく走り出した。
 彼女は2階の改札口に上がる階段の踊り場で立ち止まり、彼の方に振り向きざま、何か叫んでいる。
 風向きが変わったのか、微かに「カズくん、バイバイ!」という擦れ声が聞こえてきた。2、3度、手を振ってから、彼女は改札口に消えて行った。
 急に、和夫の頬を涙がとめどなく流れ出した。

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