男は「頑張れよ」と声に出して 自分に語りかけていた

 男は10年ぶりに名古屋のテレビ塔に出掛けて行った。
 90mのスカイデッキから、南方面を見下ろすと、丁度真下に栄のオアシス21が見える。
 そこからは、オアシス21の「水の宇宙船」と呼ばれる楕円形のガラスの大屋根の周囲をゆっくり歩く人影が目に入ってくる。点のように小さく見える人影は100%近く2人連れで、しかも男女のカップルである。
画像 男はその点のようなカップルを見ながら、ある風景を思い出していた。
 男は1度だけ、ある女性とこのオアシス21の「水の宇宙船」で待ち合わせをしたことがある。男はまだ50代の頃である。
 営業担当をしていた男が、馴染みのスナックで客先の接待をするたびに、いつも世話をしてくれたのが、その女性であった。
 男が女性に出会ったのは、彼女は子どもを二人もうけたあと、DVの夫とやっと離婚が成立した直後であった。桎梏から解き放されたように、女性は生来の性格を取り戻し、店での立ち居振る舞いは、いつも活き活きしていた。
 離婚を機に、やっと父親の勘当も解けて、今月いっぱいで生まれ故郷の大垣市に帰ることになった。
 彼女の再スタートを祝い、そしてこれまでの気遣いに感謝を込めて、初めてオアシス21で待ち合わせをして、近くのシティ・ホテルで、最初で最後の食事を予定であった。
 男はテレビ塔を下りると、久屋大通りを横切ってオアシス21に向かった。すると突然、20代半ばの男性に呼び止められた。
 「オアシス21って、ここですよね。ここに噴水ってありますか?」
 「オアシス21はここですけど、噴水は地下街にしかないと思うけど」
 「僕、今日岡山から名古屋に来たんです。名古屋の街がさっぱり分らなくて」
 「待ち合わせている人は地元の人?」
 「そうです」
 「だったら、今この場所から見える景色を説明したら、場所はすぐ分ると思うよ」
 男性は元気よく、ありがとうございましたと言って、スマホを取り出し、画面をスクロールし始める。
 男は待ち合わせ時間を確認する。まだ、約束の時間まで、30分もある。男は時間調整のために、県美術館の今後の展示スケジュールを確認しようと、正面玄関に向かっていく。
 玄関前まで行って振り向くと、先ほどの男性の不安げな姿が目に入ってくる。
 連絡は付いたのであろうか。相手が地元の人であれば、もうすぐ会えるに違いない。
 美術館の1階で展示スケジュールを確認して外に出ると、男は性懲りもなく、先ほどの男性を探している。先ほどの場所には、もうその姿はなかった。
 石段を下りて、オアシス21に向け歩いていくと、どこからか声が掛かった。
 「先ほどはありがとうございました」 
 振り向くと、先ほどの男性が立っていて、いつの間にかキュートな女の子が彼のそばにいる。
 男は嬉しくなってきて、微笑を返した。2人は弾むようにして、栄交差点に向かって行く。不意に立ち止まって、男性が女性に向かって、何かを囁いている。
 気のせいだろうか、男性が女「愛してるよ」と言ったような気がして、男はもう一度、2人の姿を目で追っている。
 「愛してるよ」という男性の声は、男の幻聴なのであろうか。
 遠距離恋愛は、時間的にも空間的にもなかなかままならない。もし先ほどの男性の立場だったら、男は間違いなく、会うたびに「愛してるよ」と言いながら、相手の気持を確認する。いや、これは飽くまでも男の夢想でしかない。
 男が女性に向かって「好きだ」と口にしたのは、女性を意識しだしてから、この50年間で数知れないほどあった。ただ、そんな男でもこれまでに「愛しているよ」とは言った記憶がないのだ。
 幻聴でもいいから、先ほどの男性が「愛しているよ」と言っていたと、男は思いたかった。
 「頑張れよ」 ― 男は男性の背中に語りかける。
 自分もオアシス21で待ち合わせをしている女性に向い、今日こそは「愛してるよ」とはっきり告白するから、・・・。 
 男はふたたび「頑張れよ」と声に出して、今度は自分に語りかけていた。

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