男から コンプレックスと嫉妬心は消え失せていた

 男は右手の親指が震えて、ガラケイの数字キーがうまく押さえられない。
 今日の昼、名古屋支社の社員食堂である女から、「カノジョが落ち込んでいるから、電話で声を聞かしてあげて」と声を掛けられ、ケイタイ番号を書いたメモを渡された。その番号は男が保存してあった番号とは異なっていた。最後にケイタイで話したのは8年前だから、番号が変更になっているのは当然のことなのかも知れない。
 男があれこれ試行錯誤している間に、電話は繋がった。
 「フー子から、電話があるかもと聞いていたけど、意外に早かったのね」 
 8年前と同じトーンの声音を聴いて、少し気持が和んできた。
 「フー子から聞いたけど、今、免停なんだって?名古屋から電車で来るのよね。名古屋駅で電車に乗るときに、もう一度電話頂戴。時間を合わせて、駅で待ってるから」
 「うん、わかった」
 8年も前に別れたのに、こんなやり取りが何の抵抗なくできるなんて。まるで先週末にでも、デートをした恋人みたいじゃあないか。何のためらいもなく、スムーズに会話が成立している。オレたちって、本当に別れたのだろうか。
 女と別れてから、数人の女性と付き合ってみたが、どこかで誰かに睨まれているような気持が抜け切らなかった。デートのあと、無防備な女を連れてシティー・ホテルにチェックインしようと決心して、幾度か地下駐車場まで行くのだが、どうしても踏ん切りがつかず、その都度、車をUターンさせてしまっている。
 助手席の女は、プライドを目いっぱい傷つけられたのか、その場で泣き出すか、怒り出して口を利かなくなる。
 男はどうしても8年前に別れた女を忘れることができなかった。
 別れた原因ははっきりしている。男のコンプレックスと嫉妬心からだ。
 男と女は、従業員5万人を超える企業の名古屋支社に同じ年に入社した。
 入社試験は東京本社で受けたが、たとえ合格しても、大阪と名古屋の支社、そして全国に11ヵ所に散らばっている工場と2つの研究所のどこに配属されるかは、辞令が出るまで、本人には分からない。どこの勤務地がいいか、合格者は第3希望までは記載することになっているが、相当なコネがなければ、希望地の勤務となることは、稀であった。
 男と女の卒業した大学は共に東京にあったが、本人の意思に関係なく、すでに勤務先は名古屋支社に決められていた。
 偶然だが、2人は配属された部署も同じで、男が配属された課は外注部品を発注する購買3課で、女が配属された課は非金属部品を調達する購買1課であった。
 課は違っても、同じ部ということもあり、男と女が所属する課は同じフロアにあった。だが、購買1課と購買3課の間に、30名の課員を持つ、購買2課が嵌っている。
 フロアが広くて、2人の席からは、双方の顔を確認することは、なかなかできない。
 同期で同じ部に配属されたのは2人だけだった。
 だが、約10日間の新人教育や部のフレッシュマン歓迎会などで何度も顔を合わせているうち、ともに東京本社で入学試験を受けたこともあって、急接近していった。
 いつしか仕事が一段落した週末には、連絡を取り合い、2人で飲みに行くようになった。
 そうした付き合いが1年ほど続いたであろうか、女の所属する課に東京本社から独身の係長がやってきて、女をしつこく飲みに誘うようになった。
 仕事が一段落した週末がやってきても、女は男の誘いを断るようになった。
 男は偶然、名古屋の繁華街で、東京本社から来た係長とその女が人混みの喧噪の中、腕を組んで歩いているのを見てしまった。
 男の動揺は傍目にも明らかで、マニュアル通りの簡単な仕事も手に付かないほど、落ち込んでいった。
 ある日、男は強引に女を飲みに誘った。女はしぶしぶ男の誘いを受け入れたが、以前のように、決して打ち解ける様子も見せず、不機嫌そうな表情を隠そうとしなかった。
 男は絶望感から、酔いに任せて、女に向かい「尻軽女」と何度も罵倒してしまった。
 女の血相が変わり、スナックのスツールから立ち上がり、男の頬を力一杯ぶっていた。女は男に振り向くこともなく、スナックを出ていった。
 再び2人の仲が修復することはなかった。
 女はしばらくして、東京本社が希望者を募っていたシカゴ支社への出向に自ら志願書を提出した。係長との関係を清算したかったに違いない。少なくても、男にはそう見えた。
 女の語学力は他を圧倒していた。女は見事、希望を叶えて、早々に転勤していった。
 噂によれば、その後、彼女と付き合っていた係長は、長期休暇を取得しては、彼女のいるシカゴ支社にまで出掛けていき、しつこいほど女に求愛したそうである。その熱意に折れる形で、シカゴ支社から帰国すると同時に、会社に退職願を出して、男の前から姿を消した。
 今から4年前のことで、女はその係長と結婚した。
画像 やがて、係長は社長室長として、東京本社に復帰していった。それを契機に2人は東京に住むようになる。
 だが、結婚後の夫のひどいマザコンとDVに悩まされ、終始夫婦間はごたついていた。またマザコンの元凶となった義理の母親に子どもができないことを責められ、次第に彼女は鬱となり、やっと最近になって、協議離婚が成立することになった。
 離婚後、実家で静養していたことがよかったのか、鬱病も治まり、女は2年前から語学力を活かして、今は中部国際空港(セントレア)で税関の仕事に携わっている。
 女が敢えて中部国際空港に勤めようと思ったのは、やはり男が名古屋に住んでいるからであった。
 女が今日、「駅」と言ったのは、名鉄空港線のセントレア駅である。
 今日までの8年の期間はやはり長かった。
 男は、セントレア駅の改札口に佇んでいる女性が、8年前の女とまったく気付かなかった。呼び止められて、やっと男は気付く。目の前の女の黒髪から、ちらほら白髪が浮き出ている。苦労が滲み出ているようで、男のなぜか、許せる気持になっていた。
 「これがね、尻軽女のなれの果てよ。驚いた?」 
 女がそんな言葉を口にすると、これまでのわだかまりを一気に溶かすように男の左腕に自分の腕を組んできた。
 男の気持は、すでに8年前に戻っていた。そして、コンプレックスと嫉妬心はどこかに失せていた。

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