別れた女のすすり泣きで ときどき目覚めることがある

 男は中学の1年から、ある事情があり、隣の市の刈谷市の南中学校に通っていた。
 今から45年ほど前の28歳の頃、妙なきっかけで、その南中学の2年先輩の女性と付き合うことになった。
画像 その妙なきっかけとは、久し振りに高校時代の女友だちと喫茶店で会って、昔話に花を咲かせていたとき、偶然、その女友だちの知り合いである彼女と出会い、一緒のテーブルで、世間話をしたことであった。
 名前をK.M.と言った。
 中学が男と同じ南中学であったのと、中学時代の英語の先生と社会の先生が一緒だったこともあり、急激に2人は仲が良くなっていった。
 1時間ほど話したであろうか、その喫茶店での別れ際、一度愛知県知立市にある「屋台村」に飲みに行こうということになった。
 今はもうないが、当時知立市の駅近くには、線路と用水沿いに80軒ほどの屋台が並んでおり、そこは通称「屋台村」と呼ばれていた。
 その頃はカラオケなどはなく、ギターを抱えた、いわゆる「流し」が3人ほどいて、屋台の一つひとつ、顔を出し、客のリクエストに応えていた。午後8時を過ぎると、ギターの音とともに流行歌があちこちから聞こえてきた。
 K.M.は飲むほどに酔うほどに、自嘲めいて自らの身の上話を語り始め、屋台が閉まる頃には自分が分からないほどに酩酊していた。男は知立駅でタクシーを拾い、そのまま家に送って行ったが、次の日に電話があり、お詫びをしたいから昨日のところでもう一度会いたいと言ってきた。
 今度は飲むほどに酔うほどに、泣き上戸のごとく泣き出し、また家まで送る羽目になったが、家の前まで来て、このまま帰るのが嫌だと駄々をこねられ、仕方なく、男は一旦、彼女とともに自分の家まで帰り、車を転がして知多半島の先端まで行ったあと、やっと彼女を家に送り込んだ。午前3時を過ぎていた。
 次に会ったとき、男はK.M.と結ばれたが、実はその日のあとに、K.M.は結婚していて、子供も男の子と女の子の2人もいると告げられる。K.M.の夫は三河地方では有名な人形店の人形師をしていたが、新しく女をつくり、彼女と一緒に暮らしていた家にはもう一年以上も帰って来ていないと告白する。
 そんな中での付き合いが半年ほど続いたであろうか。
 男はそのとき独身であった。K.M.は、男にとって性格的にも生活レベルの面でも、そして体の相性の面でも、自分にぴったり合っていると思い、真剣に彼女との結婚を考え始めていた。
 ある日、K.M.が「あなたが許してくれたら、子供たちの親権を夫の方に譲り、身一つで行くから、結婚して頂戴」と言ってきた。
 男の心の中で何かが音を立てて崩れていった。男の頭の中には、子供を夫に譲るなんて選択肢はなかった。
 K.M.の子供たちとは一緒に風呂に入ったし、東山動物園にも行った。
 夏休みには、男の車で富士急ハイランドに行って、苦手なジェットコースターにも一緒に乗ったし、日曜日には体育館で卓球やバドミントンもやった。
 男が悩んだのは、子供たちにとって、自分ははたして、いい父親になれるかどうかであり、子供たちをK.M.と切り離して、2人の生活など考えたこともなかった。
 ここで、男はK.M.の言い分を聞いて結婚したら、「オレがオレでなくなる」と真剣に思い悩んだ。彼女としては、男の親兄弟や親戚に対して、肩身の狭い思いをさせたくないと思い遣った末の決心だったのかも知れない。もしかすると、彼女は子供の親権のことで、夫と争うのが煩わしかったのかも知れない。
 だが、K.M.の提案を、男はどうしても受け入れられなかった。
 そのことがあってから、気まずい空気に包まれることが多くなり、2人の心が2度と解け合うことはなかった。ついに男はK.M.の部屋で、「別れよう」と口に出していた。
 男はそれだけ言うと、玄関で素早く靴を履き、振り向きもせず、駐車してある車に向い、駆け出していた。背後にK.M.のすすり泣きが体にへばりつくように押し寄せてくる。
 その後、男は一度もK.M.に会うことはなかった。
 男は就寝中にK.M.のすすり泣きでうなされて、時折、目覚めることがある。なぜか、いつも、べっとりと寝汗を掻いている。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

monban
2016年08月29日 01:24
issa様。yumerinko改めmonbanです。
彼には、情熱と愛情と覚悟があったんですね。彼女にとっては人生の辛い時期に、これ以上ないくらいの人と出会えた・・はずだったのに、こんなことが、あるんですね・・
issa
2016年08月29日 21:42
monban様、「あなたが許してくれたら、子供たちの親権を夫の方に譲り、身一つで行くから、結婚して頂戴」と言われたときの男のショックは、とても大きかったようです。だが、女の申し入れを受け入れて、一緒になっていても気持の上で、しこりが残ってぎくしゃくしていたかも知れないですね。
いずれにしても、常識人からすれば、格好いい恋とはとても言えないようです。
monban
2016年08月29日 23:47
issa様。彼女にとって、彼と一緒に過ごした時間は、女として本当に幸せだったに違いないと思います。

この記事へのトラックバック