私はまた、ある夢を見ていた

 今日は3連続勤務の最後の日で、気温が34℃まで上がり、湿気も多かったので、仕事が終わったことには、汗びっしょりになっていた。
 家に帰り、シャワーを浴びて、リクライニングシートに横たわっていたら、いつの間にか、睡魔に襲われて、しばらく眠っていた。私はまた、ある夢を見ていた。
 
 男は性懲りもなく、同じ夢を見ていた。
 男はある夏の始め、愛知県渥美半島の先端、『恋路が浜』を女と二人で歩いていた。
 真っ赤に周囲を染め上げながら、ゆっくりと地平線に溶け込んでいく夕陽を二人は何も語らず、ずっと眺めていた。
 男は多分、これは【幻し】かも知れない、そう思いながら、夢を見ていた。
 男にとって、それは懐かしい景色だった。
 太平洋の風を受けた波が、徐々に大きく息づきながら、一定の間隔で、浜辺に打ち寄せてくる。夢の中の光景は、20年前、陽が傾きかけた頃、はじめて女と二人で、この半島を訪れたときと、まったく同じ光景であった。
 この『恋路が浜』の海辺で、愛を誓えば二人は結ばれる、そんな言い伝えを男は信じ、その日、何処へ行くとも告げずに、女を強引に『恋路が浜』に連れてやってきた。
 昼間の陽光で暖められた砂の上を裸足で歩こうと言うと、女は「熱いから!」と何度もいやいやと首を振る。男は砂浜で靴を脱いで裸足になり、女の手を引いて、海の方へ向かって行く。付き合い出してから、男が女に対して、はじめて強いた行動であった。
 それでも男と女はどちらからともなく、手を繋ぎ、何もかも射抜いてしまいそうな真赤な陽光を、斜め後ろから浴びながら、ゆっくりと砂浜を歩いて行く。ときどき、熱砂に火照った素足を冷やそうと、二人はじゃれ合うように波打ち際に向かって行く。瞬く間に、陽は沈み、女の白い生足が男の目を刺激する。
 二人は時間の行き過ぎるのを気にする素振りも見せず、いつまでも波打ち際でじゃれ合う行為を繰り返している。
 多分、これもきっと嘘で、【幻し】に違いない。
 男は尚も夢を見ていた。
 夢の中で、女はいつしか、男の腕を両手で引き寄せ、男の胸に顔を埋める。男のかすかな心臓の鼓動を体で感じようとしているかのように、女はじっと佇んでいる。
 やがて男の表情を捉まえようと見上げた女の瞳が、男の瞳と不意に出会い、一瞬、戸惑いの表情を浮かべながらも、次第に潤みはじめる。そして、男は女の頬にそっと口づけ、やがて唇に口づける。潮の香りが二人を包む。
 あれから、20年も経っているはずだから、その口づけも潮の香りも【幻し】に違いないのだ。男はやはり夢を見ている。
 それでも男は、夢の中で、何度も何度も女に呼びかける。
 『恋路が浜』で口づけした人は、どんな困難や障害があっても、人生の最後には結ばれて、願いが叶えられる。
 『そんな言い伝えを信じてみようよ』 ― 男は今までのしがらみを振り切るように女に何度も語り掛ける。女は黙って男を見上げ頷いている。男は、時間が永遠になった気がしている。
 それも多分、【幻し】に違いない。
 男は、急に胸が苦しくなり、夜中に目を覚ます。何故か、全身にじっとりと汗をかいていた。
 ただ、頬を伝って流れたであろう涙だけが、何にもまして、新しく、そして冷ややかだった。その涙だけが、男にとって【幻し】ではなく、本物だった。

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