やっと初恋の思い込みの桎梏から解き放された気になっていた

 男は気が滅入ってくると、クリスマス休暇を利用して一人で香港の夜景を観に行くことが多かった。
 男は恋に関しては不器用であり、名古屋にある商事会社に就職してからも、学生時代に1年ほど付き合った初恋の女性を未だに忘れられないでいる。
 商事会社には適齢期を迎えた女性が多く、表情も豊かでその立ち居振る舞いは洗練されていて、メーカーに就職した大学時代の仲間からはいつも羨ましがられている。
 そんな環境の中、会社内で複数の女性から愛を告白され、何度か付き合って食事や飲みに行ったが、心から楽しむことが出来ず、デート中でも男はふっと物思いに耽っていることがある。
 一緒に飲みに行った女性たちはそのことが我慢できないらしく、せめて2人のときは、私のことだけ考えてほしいとさんざん懇願されるが、しばらくすると男はいつの間にか上の空となり、再び物思いに耽っている。
 「私の事だけ考えて!」という不満むき出しの女性に向かって、「もう少し時間がほしい。まだ自分の気持の整理がついていないから」とつい男は逃げ腰になる。やがて女性たちは男に愛想を尽かし、優柔不断の態度にあきれ果てて、いつしか彼のそばから離れていく。
 男が気持の整理がついてないと言ったのは、まだ初恋の人のことが忘れられないから、もう少し待ってほしいという意味なのだが、どの女性もその未練がましさが我慢しきれないようだ。
 男は傷心とまではいかなくても、煮え切らない自分自身にほとほと愛想を尽かしていた。
 香港に行くのは、そんな煮え切らない自分の気持にケリをつけるためなのである。
 商事会社に勤め出して5年になるが、ほぼ毎年のように香港に出掛けていく。いくら回を重ねても、男の優柔不断さの解消には役立たない。
 男は今年のクリスマス休暇にも香港に出掛けていった。
 12月の香港は日本の晩秋の季節に近く過ごしやすいが、日が落ちると知らぬ間にその涼しさが、日本の初冬の寒さに変わっていることがある。
 香港のホテルには暖房設備がなく、寒さを感じたときには上布団にブランケットを重ねて、自分に合った暖を取るしかない。
 そんな香港の不意の寒さは、男を人恋しくさせる。
 せっかく学生時代の初恋の人を忘れるために香港までやって来ているのに、それどころか、学生時代にデートをしている2人のイメージが徐々に拡がっていき、孤独感だけが際立ってくる。
 男はその孤独感を癒すために散歩に出掛けていく。
 クリスマス休暇中の香港は時間の感覚が消滅して、眠らない街となっている。
 男は尖沙咀(チムサーチョイ)のホテルを出て、プロムナードからネイザンロードをペニンシュラホテルの方に歩いていく。対岸の香港島のビルを飾るグリーティングのイリュミネーションを眺めながら、男はまた性懲りもなく初恋の人を思い出している。
 知り合ったのは、大学1年のときで、同じ朝の通学バスの中で、何度も顔を合わせているうち、男はその清楚で控えめな人柄に好感を持つようになった。5か月後、たまたま大学1年の夏休みの教職課程の集中講義で、隣りの席に座ったのがきっかけで、彼女と話すようになった。
 そのあと、大学2年の集中講義のとき、唯一の親友が仲間に加わり、喫茶店などで3人で話をしたりした。
 親友から彼女に恋していると告白されたのは、大学3年生のときであった。男は彼との付き合いを継続することを優先し、自ら身を引いた。
 しばらくして、彼と彼女との間に亀裂が生じて、別れたという話を聞いたとき、自分の先走った決心を悔やみ続け、何であのとき、自分の気持を打ち明けなかったのかという後悔が今でもなかなか消え去らないでいる。
 ふと男はホテルの15Fのスカイラウンジに行って、夜景を観たいと思い立った。
 プロムナードを歩くカップルは多く、その仲むつましさを羨ましく眺めることなく、風の冷たさも気にすることもなく、香港の夜景を楽しむことができると思ったからだ。
 15Fのスカイラウンジに行くとチャイナ服の女性が真ん中当たりの4人用のソファ席に案内してくれる。客はまばらしか入っていなかった。
 すぐにチャイナ服を着た女性がメニューを持ってきてくれ、「May I have your order?」と注文を聞いてくる。
 男は片言の英語で、「コニャックを下さい!」と言うと、チャイナ服の女性はひざまずいて、「One finger or two fingers?」と改めて尋ねてくる。
 コニャックの量は一本の指の高さか、二本の指の高さかと聞いているのだ。
 男はすかさず、「Does it mean single or double ?」と問い返すと、間髪を入れずイエスと返ってきた。男は答えの速さに笑いながら、ダブルを頼んだ。
 さらにチャイナ服の女性は男をじっと見つめ、「With water or with ice?」と問いかけてくる。男は、「Both, please.」と答えると「Yes, sir.」と微笑みながら去っていく。
 こんなチャイナ服の女性との些細なやり取りが、しがみついて離れなかった初恋の人の面影を遠ざけていく。やがて日本での女性たちとの幾つもの出来事が過去へとフェイドアウトしていく。
 それから2時間ほど、男はソファ席に身を委ね、遮る物のないヴィクトリア湾の夜景を眺めながら、コニャックを静かに口に運んでいた。
 初恋の人の面影が、突然、ヴィクトリア湾の波頭に映るグリーティングイリュミネーションの中に吸い込まれていく。男は冷静にそのことを受け入れる。こんな気持になるのははじめてであった。
 男は、やっと初恋の思い込みの桎梏から解き放される、― そんな予感がしていた。

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