母校というのは幾つになっても、郷愁を誘うところのようだ

 私は古書店巡りが趣味の一つだが、そこで外山滋比古氏の著作を見つけるとすぐに購入して、就寝前にその本が読み終わるまで、毎日30分ほど読むことにしている。
 「日本語」や「英語」に関する著作が多く、読んでいて飽きないこともあるが、実は外山氏が高校の大先輩であることも、氏の著作を読む理由でもある。
 今年の2月に同じ高校の友だちと母校を訪れた折に、事務方の男性に学校の書庫のような場所へ案内されたことがあった。そこの書棚には外山氏の著作が5冊ほど保管されているのが目に入ってきた。
 すると案内をしてくれた人が、関心を示した私に向かって「この棚にあるのは、当校卒業生から寄贈された本ばかりです」と教えてくれた。
 私はこのような人目に付かない書庫よりも、生徒が利用している図書館の一隅に卒業生の著作コーナーでも設けた方が、せっかくの寄贈図書も役立つのではないか、とまたそんな余分なことを考えていた。
画像 外山氏の著作は今年に入ってからも『日本語の個性』『英語辞書の使い方』『英語ことわざ集』を読み、現在は1982年発行の『ことば散策』というエッセーを読んでいる。
 そのエッセー集の「おはようございます」という項に外山氏が久しぶりに母校を訪れたときの様子が書かれている。その箇所を引用してみる。
 <郷里へ行ったついでに、いまは高等学校になっているが、母校の中学校を、久しぶりにのぞいてみようと思った。(中略) まだ生徒の登校して来ない早朝に行ってみることにする。それも裏門から入った。
 すでにもう運動部らしい姿が、ちらほら見える。すっかり変わってしまった校内をぶらぶら歩いて正門の方へ向かう。玄関から正門までの車寄せの両側の木は昔ながらだが、さすがに年齢を加えて貫録をつけた。玉砂利の道になっていて、さわやかな音を立てる。桜がほころびそうにしている。
 「おはようございます」
 という声をかけられたのはそのとき、女子生徒である。新学年早々だし、新入生ではないのははっきりしているが、二年生なのか、三年生なのかわからない。
 どこのだれかも知らない人間にどうしてあいさつをするのか。ただ散歩しているだけの闖入者かもしれないではないか。そんなことに関係なく、校内にいる人にはあいさつするようにしつけられているのであろうか。
 ごく自然な声が、いつもそうしているらしいことを感じさせて、気持よかった。学校の教育がしっかりしているのであろう。あるいは家庭のしつけがいいのかもしれない。起き抜けで、いくらかぼんやりしていた頭が、いっぺんにぬぐわれたような気がした。
 わが母校はすばらしい学校だと思いながら、足どりも軽く校門をあとにした。>
 この「おはようございます」は1980年に書かれたとのことである。と言うことは、私が卒業してから8年ほどあとのことなので、たぶん校内の佇まいは私が在校生のときと変わっていないと思われる。
 母校というのは幾つになっても、郷愁を誘うところだと言えそうだ。
 実は、私も62歳のときに女房を連れて、5年間通った大学に行ったことがある。
 もう一度、大学に行って英米文学の講義を受けたいと思ったからだが、とっくの昔に文学部はなくなり、今は語学中心のカリキュラムになっていた。
 私はがっかりしたが、せっかくの機会だと思い、構内を見て回った。
 まず事務棟から教授棟へと歩いて行き、500人は収容できる大教室から裏門まで向かう途中で、何人もの職員と思われる人たちや学生たちにすれ違ったが、話に夢中になっている女子学生たちを除いて、ほとんどの人が頭を下げて、先方からあいさつの言葉を掛けてくれた。
 そのときの私の服装が地味なブレザーにネクタイ姿だったので、女房に「オレって、新しい教授かなんかだと思われているのかも知れないな」と言うと、「良いように解釈し過ぎよ、そういうふうに躾けられているだけじゃないの!」と意外にあっさりした答えが返ってきた。
 保安の人も実に親切だった。
 外山氏と同じように【わが母校はすばらしい学校だと思いながら、足どりも軽く】、私は正面玄関前の駐車場に向かい、自然に和んでくる気持に浸りながら、歩を進めていた。

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