あの日の『たしかさ』は今も流れている

 中学3年のときの担任は、実にこまめな人で、私たちが卒業してからも、自ら送り出した3年生の生徒のために「クラス誌」を発行していた。その「クラス誌」の名前は「麦の歌」と名付けられた。残念ながら、3号で廃刊となってしまった。
 その「麦の歌」に大きく関わっていたクラスメートが、その3号だけであったが、半世紀以上の時を経て、復刻版を作ってくれ、その一冊を私に贈呈してくれた。
 運がいいことに、私は1号にも2号にも記事を一つも書いていなかったが、3号にはクラス会の幹事をしたときの記事と詩が載っている。
 その『たしかさ』という詩を掲載してみる。21歳のときの詩である。

< おぼえているかい 泥にまみれた虎刈りを 
  おぼえているよ おてんば娘のオカッパを
  むかしはあそこに住んでいたんだ
  肩をたたけば振り向き返す虎刈りが
  声をかければはね返るオカッパ娘の黄色い声が
  そんな小さな仕草の中に
  『ともだち』なんだという『たしかさ』が
  むかしはあそこに住んでいたんだ

  朝
  通勤電車で窮屈そうに
  夜
  雑踏の中に脂肪のたまったお尻を振って
  いた! いた!
  身なりは立派な紳士だけれど
  見かけはすごい美人だけれど
  叩いてみろよ
  やっぱりむかしのあいつじゃないか
  虎刈り坊主とオカッパ娘
  みんな裸のにんげんさ
  喉の奥まで大きくあけて
  二人で笑ったこの町に
  心の隅であたためた遠いあの日の『たしかさ』が
  やっぱり今も住んでいる

  話をしても聞いてるフリする人間サマのお通りだ
  まじめなことがソッポを向かれる世の中さ
  こんなよごれた河にでも
  手を出せば握り返すごつい手が
  ここにも そこにも あそこにも
  素朴で無邪気な『たしかさ』が
  やっぱり今も流れてる >

 21歳と言えば、養父が胃癌に罹る前で、私がまだノホホンと暮らしていた時期であり、友だちの大切さやありがたさを身に沁みて感じていない頃で、私としては自分たちの10年後を想像して書いた詩である。
 照れたような気持で書いたのであろうか、少し軽い詩だが、50年以上も経って読んでみると、自分の手から知らぬ間に遠ざかっていった青春が今にも蘇ってくるような気がしてくる。
 こういうのを自画自賛というのであろうか。
 もし、記憶を詰め込む容器がドラム管のようなものならば、中学時代の記憶はそのドラム管の底に静かに沈潜していて、記憶喪失にでもならない限り、死ぬまで残っているものかも知れない。

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