さもありなむ、私はそう言わざるを得なかった

 今朝、二階の自分の部屋で本を読んでたら、一階の台所に設置してある火災報知機が鳴り出した。
 慌てて降りていくと玄関の戸が5分の1ほど開きっぱなしになっている。微かに家の前の道路方面から、女同士の話声が聞こえる。また、向かいの奥さんと世間話をしていて、女房は台所のガスコンロで湯を沸かすか、煮物でもしていて、すっかり、そのことを忘れてしまっているようだ。
 女房に声を掛ける前に台所に入ってみると、案の定、やかんの湯が煮えたぎっていて、蓋からお湯があふれ出している。
 私は火災報知器を警報を止めて玄関の戸を開けながら、向かいの奥さんに気取られぬように声を殺しながら、女房に向かって「奥さま、何かお忘れではありませんか?」と呼びかけた。
 女房は急に思い出したのか、女同士の会話を中断して台所に駆け込んでいった。
 すでにガスコンロの火は消えて、火災報知機の警報も切れていたのを確認すると私に向かって、「また、やっちゃった!」と照れ隠しの笑いを浮かべる。
 実は私のところの女房はおっとり型でなかなか物事に動じない性格をしている。天ぷらは台所が汚れるからとスーパーで出来合いの物を買ってくるから、これまで大事にならずにすんでいるが、それでも湯を沸かすときとか、肉じゃがとかブリ大根など煮物を作るときには、これまでも年に数回の割合で鍋の中の物を焦げ付かせてきた。
 そこで、女房が総合病院を定年退職して、家で料理を作る機会が多くなってから、ガス会社の薦めで火災報知機を台所に据え付けた。そのことが返って災いしたのか、これまでより頻繁に煮物を焦げ付かせる回数が多くなったような気がする。
 それとも、女房も65歳の高齢期に突入した影響であろうか。
 そのたびに私はとみにひどくなった自分の健忘症を棚に上げて、「アホか、いつもいつも。もっと学習しろよ」とついつい声を荒げてしまう。すると女房は負けじと「アホだから、35年も持ってんの!」と言い返してくる。
 つまり、短気で自分勝手な私と35年も夫婦生活をしてこれたのは、自分がアホで嫌なことをすぐ忘れてきたから、離婚もせずに今日までこれたのだと言うのである。
 確かに女房の言うことにも一理ある。
 結婚は個性も生い立ちも違う男女が裸で向き合い、共に日常生活を営む。そして、それぞれが育った家の固有の文化を色濃くひきずっていて、折に触れて、その固有の文化が衝突する。しかも、その生活文化は幼少期からそれと気付かぬほどに深く、互いの意識に沁み込んでいているから、容易に改まるものではない。時には互いを傷つけ合い、自身もうんざりするほど何度も諍いを繰り返し続けることにもなりかねない。
 だが、私には結婚という形態はそうした衝突、諍いを通して、やがて、一つの生活スタイル、新しい家の文化が作り上げていくものだと私は結婚当時から割り切ってきた。
 従って、嫌な事はすぐに忘れて、相手の欠点をあげつらわず、いつも妥協点を見い出しながら、二人だけの家の文化を築いていく、それが当たり前の夫婦生活なのだと悟りきってしまえばいいのだ。
 女房が<自分がアホだから、これまで持ってきたのよ>と言うのは、私の偏屈さに合わせていくには、過ぎ去ったことをすぐに忘れるという方法しかなかったのよと今さらながら、私に向かって開き直っているように思えてきた。
 さもありなむ、これからもよろしく、私はそう言わざるを得なかった。

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