出勤する道すがらで 気付く事がらもある
最近、私は自分より年上の作家たちのエッセイ集を読むことが多くなった。
前にもこのブログに書き込んだが、そうしたエッセイ集を読む契機(きっかけ)となったのは、黒井千次氏の『夜更けの風呂場』というエッセイ集であった。その後、庄野潤三氏のエッセイ集を読み出して、今は三木卓氏の『遠くまで見える道』というエッセイ集を読んでいる。この本もまた古本屋の片隅で眠っていたのを見つけ出して購めたものである。値段は105円であった。
黒井千次氏には『散歩の一歩』、庄野潤三氏には『散歩道から』と本のタイトルにすでに<散歩>という言葉が入っているが、今読んでいる三木卓氏のエッセイ集 『遠くまで見える道』にも散歩について書かれた章がある。それは第一章「あるく」で、「あるく」ことに関する文が九篇が掲載されていて、冒頭の一篇のタイトルは、そのものずばり「散歩」である。
こうして連続して、作家という人たちのエッセイを読んでいると日課として散歩は欠かせないルーティーンのようだ。確かに書斎に閉じこもり、ひたすら原稿紙に文字を連ねる作業をしていると季節の移り変わりを肌で感じるためとか、硬直しかかった気分を転換するとかで、朝の散歩は散歩は欠かせないのかも知れない。
だが、面白いのは同じ朝の散歩でも人それぞれ育ってきた環境のためであろうか、物の見方や感じ方が異なるということである。
私も3日に1度の割り合いで散歩している。つまり、3日に1度の割り合いでアルバイト先に仕事に歩いていくので、自分で勝手に散歩と言っているに過ぎない。さすがに冬の季節の1時間半早出の日は寒さのために散歩という気分になれないが、午前8時出勤のときや午後からの出勤のときには、少し早めに家を出て、よその家の庭を覗きながら歩いていく。私にとっては散歩なのだ。
ただ、冬の庭は花を付けているものが少なくて、実に寂しい。目立つ花と言えば、山茶花、寒椿、水仙ぐらいのものである。
それが午後からの天気のいい日の出勤のときには、ときどき、庭を通り過ぎるときに硝子戸や窓が開いて、エプロン姿の女の人を見掛けることがある。おそらく、ご主人は会社に出掛け、子供たちも中学や高校に行って、主婦たちが一番ほっとしているときに違いない。大抵はその手は水仕事で荒れていたり、手首はエプロンの袖口の上から輪ゴムで締められていて、体型的にはふっくらとした人が多い。<わたしの宝物は家族。わたしは愛する主人に所有されいるの。>と私に誇らしげに見せつけているようだ。
それもまた、幸せな光景と言うべきなのかも知れない。そして、これから一人で仕事をやらねばならないという緊張感を取り除いてくれる。これも一種の散歩の効用と言っていい。
最近では個人情報を秘匿するためか、表札には住所もフルネームも書かれておらず、ただ苗字だけが刻まれている場合が殆んどだ。すると何が起こるかと言うと、驚くべきことに私の歩く1.5kmの間には「深谷」という苗字の人が向こう三軒両隣りの中に3軒もあったりするエリアがあったりするのである。これでは地元の人でさえ家を間違えてしまいそうだ。
これは余談だが、駅までの道筋にも「深谷」という苗字が確かに多いが、私も氏子である「熱田社」の50mの参道には、わずか50mの間に「深谷」という苗字の家は5軒もあり、家の造りもよく似ていて、私は「深谷」という苗字を持つ小学校の同級生の家に行くのに何度も間違えたものである。
前にもこのブログに書き込んだが、そうしたエッセイ集を読む契機(きっかけ)となったのは、黒井千次氏の『夜更けの風呂場』というエッセイ集であった。その後、庄野潤三氏のエッセイ集を読み出して、今は三木卓氏の『遠くまで見える道』というエッセイ集を読んでいる。この本もまた古本屋の片隅で眠っていたのを見つけ出して購めたものである。値段は105円であった。
黒井千次氏には『散歩の一歩』、庄野潤三氏には『散歩道から』と本のタイトルにすでに<散歩>という言葉が入っているが、今読んでいる三木卓氏のエッセイ集 『遠くまで見える道』にも散歩について書かれた章がある。それは第一章「あるく」で、「あるく」ことに関する文が九篇が掲載されていて、冒頭の一篇のタイトルは、そのものずばり「散歩」である。
こうして連続して、作家という人たちのエッセイを読んでいると日課として散歩は欠かせないルーティーンのようだ。確かに書斎に閉じこもり、ひたすら原稿紙に文字を連ねる作業をしていると季節の移り変わりを肌で感じるためとか、硬直しかかった気分を転換するとかで、朝の散歩は散歩は欠かせないのかも知れない。
だが、面白いのは同じ朝の散歩でも人それぞれ育ってきた環境のためであろうか、物の見方や感じ方が異なるということである。
私も3日に1度の割り合いで散歩している。つまり、3日に1度の割り合いでアルバイト先に仕事に歩いていくので、自分で勝手に散歩と言っているに過ぎない。さすがに冬の季節の1時間半早出の日は寒さのために散歩という気分になれないが、午前8時出勤のときや午後からの出勤のときには、少し早めに家を出て、よその家の庭を覗きながら歩いていく。私にとっては散歩なのだ。
ただ、冬の庭は花を付けているものが少なくて、実に寂しい。目立つ花と言えば、山茶花、寒椿、水仙ぐらいのものである。
それが午後からの天気のいい日の出勤のときには、ときどき、庭を通り過ぎるときに硝子戸や窓が開いて、エプロン姿の女の人を見掛けることがある。おそらく、ご主人は会社に出掛け、子供たちも中学や高校に行って、主婦たちが一番ほっとしているときに違いない。大抵はその手は水仕事で荒れていたり、手首はエプロンの袖口の上から輪ゴムで締められていて、体型的にはふっくらとした人が多い。<わたしの宝物は家族。わたしは愛する主人に所有されいるの。>と私に誇らしげに見せつけているようだ。
それもまた、幸せな光景と言うべきなのかも知れない。そして、これから一人で仕事をやらねばならないという緊張感を取り除いてくれる。これも一種の散歩の効用と言っていい。
最近では個人情報を秘匿するためか、表札には住所もフルネームも書かれておらず、ただ苗字だけが刻まれている場合が殆んどだ。すると何が起こるかと言うと、驚くべきことに私の歩く1.5kmの間には「深谷」という苗字の人が向こう三軒両隣りの中に3軒もあったりするエリアがあったりするのである。これでは地元の人でさえ家を間違えてしまいそうだ。
これは余談だが、駅までの道筋にも「深谷」という苗字が確かに多いが、私も氏子である「熱田社」の50mの参道には、わずか50mの間に「深谷」という苗字の家は5軒もあり、家の造りもよく似ていて、私は「深谷」という苗字を持つ小学校の同級生の家に行くのに何度も間違えたものである。
この記事へのコメント