歳月は、高校時代のままでいさせてはくれない

 私は県立刈谷高校を昭和37年(1962年)に卒業した。15回生であった。
 それから48年間、私が記憶している限り、クラス会はもとより、同学年の同窓会というものが一度も開かれなかった。ところが今年の7月に入ってから突然、9月25日に15回生の同窓会を開催するとの通知が届いた。
 だが、私は出席を躊躇した。このブログのトップページにも書き込んだが、私は未だに<ひょっとすると人生の落伍者かも知れない>という思いが頭のどこかにへばりついていて、とても気持をまっさらな状態で、かつてのクラスメートに会えないと思ってしまったからだ。画像
 昨日、その同窓会の幹事の人から、当日のコピーされた集合写真や同学年全員の名簿、そして欠席者の近況報告などが掲載された資料が送られてきた。次に15回生の同窓会を開く予定は、私たちが古希となる平成26年を予定しているとも書かれていた。
 そこまで確認すると私はその資料をパソコンの机に置いたままにしておくと、いつの間にか、その資料が女房の手元にあって、いつにない真剣な眼差しで、その同窓会の資料を読んでいるではないか。
 不思議なもので、こうした私の学生時代の資料が届くと、私よりも女房の方が気になるようで、今回も1時間ほど掛けて熱心に送られてきた資料に目を通していた。
 その女房の話によると私たち15回生は全員で332名で、そのうち女性が約3分の1で、物故者欄には23名の名前があり、住所の分からない人が14名もいると報告してくれる。そして、今回の出席者は74名、うち女性は14名だとも報告してくれる。旦那の同窓会なのに、実に根気がいいことだ。
 女房は島根県の中学を卒業してから、滋賀県の東レ病院の看護学校を卒業して、そのまま東レ病院の看護師となった。そして、両親が愛知県に引っ越してくると同時に女房も滋賀県の病院を辞めて、愛知県にやって来て両親の家から刈谷市の総合病院に勤め出した。
 これは、これまでに私が女房から聞いた話である。従って、島根県の中学の同窓会や滋賀県の看護学校の同窓会などに出席する機会がなかなか持てなかったようで、その分、私のところに届く同窓会やクラス会の資料に興味が涌いてくるらしい。
 「せっかく、幹事の人が手間を掛けて送ってきてくれたのだから、ちゃんと読みなさいよ!」 いやはや、女房のしゃべり方が命令口調になってきた。いかん、これはいかん、私は背筋を伸ばした。
 集合写真がコピーされていて、少しぼやけていることもあり、3年間で一度も接点のない人もいたりして、辛うじて4人ほどは分かるが、他の人が誰が誰やら、さっぱり判らない。
 出席名簿で確認すると高校時代いちばん仲のよかった「かずみっちゃん」も、2006年にこのブログに「思い出のゆくえ」というタイトルで記事を書き込んだことのあるKeikoちゃんも、そして、同じように2006年に「男から貰ったラブレター」というタイトルで書き込んだ高校1年のときのクラスメートも出席していた。
 正直に言えば、かずみっちゃんにもKeikoちゃんにも会ってみたかった。特にKeikoちゃんのこれまでの人生を聞いてみたかった。
 だが、その人たちを集合写真からは確認できない。何とも悲しいことである。48年という歳月は、決して高校時代のままではいさせてくれない。
 古希のときには、果たして私の中から<人生の落伍者かも知れない>という強迫観念が消滅しているのであろうか。

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