山のあなたの空遠く

 7月4日付中日新聞の「編集局デスク」というコラムに、「声に出して読みてゃあ名古屋弁」(二代目勤勉亭親不孝著、すばる舎)という本のことが載っていた。
 私は吃驚した。
 私が驚いたのはコラムの内容ではなく、45年ぶりに<勤勉亭親不孝>という懐かしい名前に出会ったからだ。
 昭和39年、私は名古屋にあるN大に入学した。そのとき、たまたま隣りの席になった男子の同級生と気が合って、いつも一緒に授業を受けていたが、入学してから3ヶ月ほどが経ったころ、その同級生に誘われて、2回生、3回生の先輩たち3人を加えた5人で「落研(オチケン)」を立ち上げた。中部地方の大学では始めての「落研(オチケン)」で、しばらくして週刊誌にも取り上げられたことがあった。
 自分の芸名をどうしようかとさんざん考えに考え抜いた挙句、その同級生がシャレのつもりで付けた芸名が<勤勉亭親不孝>だったのだ。
 ただ、私が知っていたのは、初代勤勉亭親不孝で、「声に出して読みてゃあ名古屋弁」の著者の二代目勤勉亭親不孝氏ではない。それにしても、自分で考えに考え抜いた芸名が後輩に受け継がれたのは、本人にとっても、嬉しさも人一倍というところであろう。
 ネットで、彼の本名を入れて探索してみると、30数年教師をしていたときも、その後、教師を退職してからもずっと名古屋で「落語を聞く会」の世話人をしていたらしい。たとえ素人でも、高座に上がり自分のパーフォーマンスで客が敏感に反応した経験を一度でも味わってしまうと、その臨場感がいつまでも忘れられないものらしい。
 彼とは、よく一緒に名古屋の大須演芸場に行ったが、特に大の月に開催される余一会が東京落語大会であるときなどは、必ずと言っていいほど、彼と一緒だった。二人とも当時の2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)のファンで、とりわけ、師匠の「授業中」が好きだった。
 師匠の「山のあな」三部作と呼ばれる落語には、必ず吃音者が出てきて、会話の中でその吃音者のしゃべりが誇張されたり、「山のあなた」の詩を朗読するときはつっかえて読めなくなってしまう吃音者も、浪曲で節を付けるとつっかえなくなる。その浪曲もまた玄人裸足ときている。本来なら、笑えない状況が見事にデフォルメされて、次第に笑いが増幅されていく。
 歌奴師匠は、若い頃に吃音者だった経験があり、その演技にはリアリティーがあり、底知れぬ説得力があった。さしずめ、今の時代なら、差別用語連発だとして問題視されるのかも知れない。
 その「授業中」の中に出てくるカール・ブッセの「山のあなた」という詩は、特に私には印象深かった。高校時代、現代国語の教科書の中で習った上田敏訳の詩集『海潮音』に収録されていた詩だったからである。
 私は、師匠がこの詩を題材にして笑いのネタにしたことに対して、何の違和感も感じなかった。この「授業中」という話は、三遊亭歌奴師匠の実体験をもとに作られた話だと思っていたからだ。おそらく、師匠もこの詩をこよなく愛していたのではないだろうか。何度も師匠の「授業中」を聞いた私の直感だ。
 ところが、自分がサラリーマンとなり、社長命令で営業担当となって、積極的に外に向けて自分をアピールせねば、決して道が開けないと悟ってきて、改めてこの詩を読んでみると、この詩の作者は何と消極的で、自らの意思では行動を起こせない、まったく夢のない人なのではないかと考えるようになった。
 ひとり家に閉じこもって、小さな窓から見える山のあなたは、人が言うように夢や希望の象徴に思えるのは、人間の心の自然の成り行きだが、何かを求めるために<われひとと尋とめゆきて>、そのまま、何もしないまま、何も感じないまま帰ってきて、さらなる向こうに幸せがあると想像してしまう。それが、人間の性だといってしまえばそれまでだが、山のあなたに行く道のりの中で自分の五感を刺激され、感動を呼び起こす何ものかに出会わなかったのであろうか。
 人間はさまざまな未知なるものに感動する。人間を取り巻く環境は未知なる物のオンパレードである。「幸(さいはひ)」は山のあなたにあるのではなく、身近な未知なる物の憧憬や未知なる人との出会いが引き起こす感動の中に存在している、― さまざまな経験を経るごとに私なりに出した結論である。
 時間が経つにつれて、この詩が自らの意思で何も行動をしない、観念だけで物事を解決しようとするような、そんな弱々しい詩に思えてしまったのである。
 自ら動くことで道が開けると信じて、38年間もサラリーマン生活を送ってきてしまうと、今は<山のあなた>という詩は、好きな詩というより、単に懐かしい詩で、それ以上でもそれ以下でもない。

 <山のあなた>  カール・ブッセ

  山のあなたの空遠く
  「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
  噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみ、かへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。     (上田敏訳 『海潮音』より)

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