恋に恋しても、恋は恋

 最近、私は重松清氏の『あの歌がきこえる』という新刊の文庫本を読んでいる。
 この本の最後のページに小さな字で次のような説明書きが載っている。
 <この作品は、2002年6月から2003年5月にわたって雑誌『週間ポスト』に連載された「ちくメロ放送局」を改稿した、文庫本オリジナル作品です。>
 この一文を読んで、私たち読者には想像しがたい経緯があることを伺わせる。普通は連載終了と同時に、作者が追加加筆して単行本化するものだが、この作品は週刊誌に連載されていたのは6年も前のことであり、しかも、やっと上梓されることになっても、単行本ではなく、オリジナル文庫本になったことに私は少し引っ掛かっている。『週間ポスト』の発行元が小学館で、この文庫本の発行元が新潮社ということに関係あるのだろうか。こんなことを考えるのはやはり、私はひねくれ者だ。
 各章のタイトルが、作者が中学時代に流行っていた歌謡曲の題名になっていて、その歌詞によって連想されるエピソードをベースにして、話は進められていく。別に今日はこの本に関する感想を書こうと思った訳ではない。
 今日、私はこの本を読みながら、自分の中学生の頃を思い出していた。そして現在、私と同じようにブログに日頃の自分の生活ぶりを綴り、ほぼ毎日記事をUPしている中学高校時代の友だちの初恋の人のことを思い出していたのだ。
 恥ずかしい話だが、何しろ50年以上前のこととて、どこまでが現実で、どこまでが幻しなのかが判然としないが、彼に誘われて、中学校の放送部の部屋に行ったことがあった。その部屋にひとりの放送部の女生徒がいて、放送室では校内放送の真っ最中であった。放送が一区切りしたとき、私は何を思ったのか、次の放送は自分にやらせてくれとたのんで、無理やり原稿を読んだ記憶がある。
 自分としても意外とうまくいって、自慢げな態度でいると、いつの間にか、その友だちは放送部の女生徒と笑い声を上げながら談笑している。
 私は羨ましくもあり、話に加わるのは邪魔をするようで気が引けていたが、思い切って「次は?」と放送部の女生徒に聞くと、彼女は黙って、ひとつのSPレコードをプレーヤーに掛けた。そのレコード盤には「天然の美」という黄色い下地に黒い文字でラベルが貼ってあった。
 私の小中学生の頃には、「木下大サーカス」という曲芸団が1年に1度ほど、この地方にもやって来ていて、中学かどこかのグランドにテントが組まれると、私は養父母に連れられて、何度かサーカスを見に行ったものだ。そのとき、必ずと言っていいほど、サーカス団のテントの中で流れていたのが、この「天然の美」で、私はあのときの物悲しい曲がはじめて、「天然の美」という題名だったことを知った。
 放送室から自分たちの教室に帰る途中、友だちから「あのコ、かわいいだろう?」と聞かれて、何と返事をしていいかわからず、曖昧な態度でいたが、友だちの嬉しそうな表情に、私は「コイツ、あのコが好きなんだな。」と思い当たったのである。
 それから、中学生のときに2、3度、高校生になってからも2、3度、彼女に会った。私には痩せ型だが、ずいぶん大人びて見えた。
 友だちは中学高校生時代、どちらかと言うと異性に関する気持には正直なヤツで、好きな女のコに出会うとそのたびに私たちに報告をしてくれたが、ありがたいことに私と好きになる女性のタイプが断然異なっていて、聞かされても何の動揺もなく、冷静にその告白を聞くことができた。私は気持が狭いのか、今でも同じ女性を好きな男とはどうしても距離を置いてしまう。悲しき独占欲のなせる業か。
 友だちはブログの記事の中で、放送部の彼女に好きだと告白したら、「あなたは恋に恋しているだけよ」と自分の気持を受け入れてもらえなかったと書き込んでいる。
 変わり者の私には、「恋に恋しても、恋は恋」のはずで、はっきり言えば、彼は失恋したのである。男と女の取っ付きは、殆んどの場合、男の大いなる錯覚から始まる。それはある意味で、恋に恋にしている証拠なのであろう。
 もし、重松清氏ふうに、私のこの時期を表現する章のタイトルは、おそらく「天然の美」ということになるに違いない。

 「美しき天然(天然の美)」 作詞:武島羽衣 / 作曲:田中穂積
  空にさえずる鳥の声 峯より落つる滝の音
  大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音
  聞けや人々面白き 此の天然の音楽を
  調べ自在に弾き給う 神の御手の尊しや

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック