その本の内容の面白さは 「底なし沼だ」と言える

 7月12日付中日新聞の朝刊コラム「中日春秋」に次のような文章が載っていた。 
 <本棚が満杯になると、やむを得ず本の整理を始めるのだが、これがなかなか難しい。どの本も古くからの友人のようで、別れがたい。
 久々の出会いに、つい手に取って読み始めてしまう本もある。大げさかもしれないが、何やら運命を感じるのだ。新しい発見、喜びがあるかもしれない。かくして作業は一向に進まないのである。>
 私の場合は1階と2階にある本棚が満杯となると、その本棚の前に同居人の迷惑も考えずに無造作に本を積んでいって、部屋のスペースがどんどん狭めていく。すると女房が、どこからかダンボール箱をもらってきて、その積んである本を、ただただランダムに詰め込んでいく。
 従って、もう一度本の内容を確認したいと思っても、目当ての本がどこにあるのか、その在りかがまったく分らなくなっている。悲しいが、それが34年間続けてきた我が家の本に関しての整理整頓ぶりだ。
 去年の11月にアキレス腱を断裂したのを期に、34年ぶりにその気になって本を整理しだしたが、「中日春秋」の作者と同じで、何しろ、高校時代から始まる45年間のこととて、<どの本も古くからの友人のようで、別れがたく>なり、段取りよく整理ができない。
 自分の64年の来し方をふと振り返ってみると、どこかで大事な忘れ物をしなかっただろうかと、一旦、立ち止まってしまうとその猜疑心がどんどん膨らんでいき、本に付着した過去の時代の手垢の懐かしさも手伝ってか、どうしても、そのまま通り過ぎていけなくなってしまう。なりふり構わずに生き急いできた人たちが持っている独特の性(さが)なのかも知れない。
 そんな懐かしい友人とも言える本が、最近ダンボールの中から現れた。
 佐藤信夫氏が著した「レトリック感覚(1978)」「レトリック認識(1981)」「レトリックを少々(1985)」の3冊である。画像
 佐藤信夫氏が「レトリック感覚(1978)」という本の中で、作家が、多かれ少なかれ何食わぬ顔をして、自分好みの表現形式(レトリック)を駆使して、さまざまな文章を綴っていることを多くの例文を引用して分りやすく解説してくれていて、私は、まさに目からウロコが剥げ落ちるように、本の内容ばかりでなく、その文体についても大いに興味を持つようになった。
 言い方を変えれば、私はこの本を読んで、作家にはひとり一人、独自なレトリックを持っていて、それが作家の文体の骨子になっていることを知った。そして、文章を読むことそのものが断然面白く感じるようになったのである。
 作家の井上ひさし氏がこの「レトリック感覚」という本について、本文に記載されているレトリックのテクニック(直喩、隠喩、換喩、提喩、列叙法、緩叙法)になぞって、次のように感想を述べている。
 <この明快でたのしい書物を直喩でたとえるならば、「上出来の推理小説のようにおもしろく」、隠喩でいえば内容の深さは「底なし沼だ」と言い切ってよい。また換喩ならば「読者に文学を志す鬼があれば、この本はその鬼の金棒となるだろう」はずで、提喩では「お買得」だ。誇張法では「こういう種類の本に乏しかったこの国の文化界にとってこの本の出版は、彼の月世界着陸にも匹敵する快挙」であり、列叙法では、「一読感嘆、再読感動、三読卒倒・・・・・・」であり、緩叙法では「この本はすばらしくないわけでは決してない」のである。
 はやりことばで、そしてふたたび隠喩でいえば「この本こそ空前の知的武器」である。>
 さすがに井上ひさし氏というべきか、ユーモアに富んだ比喩で、この「レトリック感覚」という本の内容を見事に披露している。この的確な氏の感想で、この本が語ろうとしている輪郭がおぼろげながら分るのではないだろうか。
 再読してみると、この本は隠喩でいえば、内容の面白さは躊躇なく「底なし沼だ」と言える。

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