最近の自分の生活に 喝を入れたい

 今日、外山滋比古氏の『省略の文学』を読み終えた。これで、私が持っている外山滋比古氏の6冊の本を、この2週間で全部読了したことになる。画像
 私は1979年、今から丁度30年ほど前、外山滋比古氏の『フィナーレの発想 』を読んだ。その中で、私は次のような文章に出会った。
 【人生が100メートル競走ならスタートにおける5メートルの遅れは決定的だろう。だが人生をマラソンと考えるならば、出足の遅速など、問題ではない。エリートとよばれる人にライフワークが少なく、むしろ何度か挫折した人が自分の折り返し点を発見して、晩年にすばらしく充実した人生を送る実例は、数限りない。】
 私はこの文章に出会い、自分の意思に反してサラリーマンなった私でも自分に嘘を付かず、正直にコツコツ努力していけば、随分遠くに行ってしまって、今はもう、その影さえも見えなくなりつつある学生時代の仲間たちに、ひょっとすると自分が死ぬまでに追いつけるかも知れないと思えてきたのである。目からウロコとはこのことを言うのであろうか。
 それから、外山滋比古氏のことを調べてみると、氏は愛知県西尾市出身で愛知八中の卒業だということを知った。つまり、旧制中学の愛知八中というのは、現在の刈谷高校の前身で、刈谷高校は私の母校なのである。単純な私は、さらに親近感を持った。
 そんなこともあって、私は氏の著作を数年間の間に、『省略の文学』『ことばの作法』『ことばの心』『ことばの姿』『日本の文章』と立て続けに読んだ。
 最近、久し振りに氏の本を手に取ってみる機会があり、私は惰性に流れている自分の生活に喝を入れるためにも、もう一度、氏の本を読んでみようと思ったのである。
 読み終わって、自分の目の前が、少し開けてきたように思う。たとえ、三日坊主と言われようと自分が興味を抱いたものは、とりあえず、やってみようと思いだしたのだ。
 氏のアドバイスによれば、脳の退化を防ぐためには、今興味があるものに、とりあえず取り組んでみて、一つのものにのめり込む前に、また次に新しいものに向かって、絶えず躊躇なく挑戦していくことだと言う。氏が英文学者ということもあるが、やはり、そのうちの一番手っ取り早い方法は、外国語の勉強だそうで、脳の活発化に大いに役立つと言う。私も<さもありなん>と納得する。

 尚、これから先は余談の領域になってしまうが、6冊もの単行本を2週間という短期間で読めたのは、『フィナーレの発想 わがライフワーク論』を除いた5冊は、テーマに多くの重複もあり、文章の表現も同じような流れで、引用されている複数の例文も類似していて、その部分を斜め読みをすれば、5冊といっても実質的には3冊ほどになってしまうからである。重複が多いのは、氏が自説を曲げず、時の流れに流されることなく、ブレていない証左とも言える。
 この中で、氏がもっとも強い言葉で繰り返しているのが、日本語はすべからく縦書きにすべきだという提案である。その根拠については、あえて、ここでは述べないが、少なくても俳句や短歌については、やはり、縦書きの方が読みやすく、作者の感情が素直に伝わってくるように私も思う。
 最近、中学時代からの友だちが、今年文化教室の短歌サークルに入って、月に一度は短歌を作り、自分のブログに載せているが、ブログは当然横書きなので、やはり読みにくいと感じてしまうのは、氏の論調に影響されたせいなのであろうか。

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この記事へのコメント

鈴木至彦
2009年06月18日 09:58
確かに、短歌は縦書きの法が詠みやすいし、区切りに空きを入れたならもっと詠み易くなると思います。先日、書店に行ったところ、夏目漱石の『こころ』のマンガ本があっただけでなく、横書き版というものもありました。慣れというものは恐ろしいものだと思いました。
issa
2009年06月18日 23:11
鈴木至彦さま、特に古文は縦書きの方が読みやすいですよね。
「蜻蛉日記」や「源氏物語」の横書きには、どうも抵抗感があります。外山氏が言うように、日本語が表意文字で、文字を目で追って、文の意味を理解するという思考経路に関係しているのかも知れません。
では、また。

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