教師だって、学ぶのだ

 先週末、近くの書店で、8月20日発行された重松清氏の短編集『気をつけ、礼。』を買った。
 単行本としては、230ページと短いこともあったが、昨日の午前中から読み出したら、ついつい、のめり込んでしまって、昨日のうちに一気に読みきってしまった。
画像 この短編集に収められた小説の構成は、ある作品は生徒の目から見た学校時代の思い出であったり、逆に、ある作品は教師の目からのそれであったりと、視点が異なっても、ほぼ共通しているのは、先生と生徒の関係だった学校時代の話とそれから幾年かのち、年月を経て、生徒と先生が再会してからの話が、章や行間を変えることにより、過去と現在が入れ替わり、互いの心情を交錯させながら、ストーリーが展開されていく。
 唯一、そうしたジャンル分けが、きっちりできないのが、「ドロップスは神様の涙」という短編で、言葉がぞんざいで怖いけど、根っこは優しい保健室のおばさんとイジメられっ子の交流を描く物語だけである。だが、この1編とて、大きなカテゴリーで括ろうと思えば、括れないことはない。
 単行本の帯に次のような文章が書かれている。
  ― 『僕は、あの頃の先生より歳をとった ― それでも、先生はずっと、僕の先生だった。受験の役には立たなかったし、何かを教わったんだということにさえ、若いうちは気づかなかった。オトナになってからわかった…』 ―
全く、その通りだと思う。私のように、60歳を超えてから、先生から教わったことが分ることもあり、大人なってからでないと、気付かないことも世の中にはいっぱいあるし、過去の先生とのやりとりから、神様が下りたように不意に悟ることだってあるのだ。
 私には色んなことを考えさせてくれる短編集だった。そして、下記のように、作品の中に散りばめられた素晴らしい文章にも出会えたことも、私には印象深い短編集だった。
 【教師も完璧な人間でなく、教え子に教えられながら成長していくんだ】
 【オトナにはどうして先生がいないのか。先生なしで生きていくのがオトナなのか】
 【教師だって、学ぶのだ。たくさん後悔して、申し訳なさも背負って、なにを学んだかわからないまま、学ぶのだ】
 私は、3ヶ月の教育実習にも行ったし、愛知県の教員試験も受けたが、教師にはならなかった。手垢のついていない生身の子供たちを教えることに自信がなくなったこともあるが、不遜にも、苦労の割には見返りの少ない職業のように思ってしまったからでもある。いわゆる、割が合わないと早々に見切ってしまったのだ。
 【たくさん後悔して、申し訳なさも背負って、なにを学んだかわからないまま】、必死で子供たちと学んでいけば、手垢のついてない生身の人間と接することで、より一層、他の職業では考えられないほど、多くの体験や思い出、後悔や約束を繰り返しながら、幾つもの経験をすることになったであろうに、私は自らその機会を放棄してしまった。
 この短編集を読んでいると、自分の生き方とのギャップを嫌と言うほど思い知らされ、羨ましくて仕方がなかった。
私の中学高校時代の友だちは、何年間かは、定かには聞いたことはないが、教育大を出て教師の経験があり、奥さんも定年まで、数学の教師をやってこられた。
 おそらく、この短編集を読んだら、私には門外漢でハッキリとは言えないが、オ-バーラップする経験が幾つかあるのではないだろうか。そう言った意味からするとやはり、その友だちに対しても、少しばかり、羨ましさを感じてしまう。
 この短編集の中に、中学の美術教師で何度も展覧会に応募するも、ついに定年まで夢実らずに学校を去る「マティスのビンタ」という小説があるが、その姿が、今の自分の頭上に投影されてきて、自ずと私は切なくなってきて胸が詰まってくる。だが、それでも、今までの自分の味気ない体験と比較すると、人間関係の真摯さでは雲泥の差があり、私には羨ましくてたまらないのである。
 いずれにしても、自分の気持がのめり込める小説に出会えたことは、兎に角、嬉しい。
 今日、テレビを見ていたら、北野武監督の次回作「アキレスと亀」の主人公のあだ名も、奇しくも、「マティス」だそうである。絵画が好きで自分の作品に没頭し続け、のめり込んでいっても、最後まで世間に認められない画家のあだ名には、「マティス」がふさわしいのであろうか。
 そう言えば、中学高校時代の友だちも、美術教師であった。

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