愛を超えて 愛に辿りつく

画像 私は去年の暮れ、中学高校時代の友だちに、いい映画だから観てみろと韓国映画「八月のクリスマス」のDVDを渡した。
 「八月のクリスマス」を観た友だちが自分のブログで、映画そのものの感想というより、むしろ韓国映画「八月のクリスマス」を薦める私の女性観を、友だちの立場で丁寧に分析している。
 彼の分析をじっくりと読んでるうちに、自分でも掴みかねてた自分の根っこにある女性観が少しは分る気がしてきた。
 彼のブログの記事の内容は次のようである。

 『韓国映画『八月のクリスマス』をやっと観た。
 何しろ我が家にはDVDを見られるプレイヤーがない。たまたま孫娘が借りてきてくれたので、観ることができた。「『八月のクリスマス』はいいよ」と言って、DVDを持ってきてくれたのは中学高校と一緒だった友だちだ。
 映画を観て、彼が心惹かれたのがよくわかった。叶わない恋が淡々と描かれていた。私の友だちは叶わない恋をいつもそしていつまでも追い求めた。彼のことを少しばかり知っている私から見ると、彼は「恋」を恋するが故に、決して現実的なものであって欲しくないのだ。彼にとって、恋は崇高なものであり理想そのものである。恋は決して成就しない。まして恋は肉欲であってはならない。
 愛の形はやはり人様々だと思う。友だちの「恋」は、彼の希望なのだろう。崇高で理想そのものである「恋」は、成就しないものだ。そっと、手を触れる程度、それ以上に進むことはない。だからいつまでも淡い恋だ。美しい恋だ。決して傷つくことはない、いがみ合うことはない、肉体を求め合うことはない。彼は相手を傷つけることを恐れていた。でも、一番恐れていたのは、自分が傷つくことではなかったのかと私は思っている。彼が決して深入りしなかったのは、愛する人のことが忘れられなかっただけでなく、深入りすることで負う傷の深さを恐れたのだ。いや、初恋の人に対しても彼女の方が受け入れる気でいたのに、一歩踏み出せなかったのは彼の特有な「愛の形」にあった。』

 彼の分析は九割がた当たっていると言わざるを得ないが、私は人生観、とりわけ価値観を共有できる女の人とはすぐ仲良くなってしまうし、好きになってしまう。しかし、それがなりふり構わない愛の帰着を求めることになるかというと、決してそういう方向にはいかない。それはきっと初恋の人T.T.への愛の挫折が、どんなに年を経ても消え去らないことに起因しているかも知れない。一生掛けてでも愛し続けると心に決めてから、他の人を愛することは、初恋の人T.T.への愛が一瞬のうちに偽りの愛に変貌してしまうような気がするからだ。だから私は、初恋の人T.T.と別れてからは、恋愛ごっこという形でしか付き合うことはできなかった。恋愛ごっこであれば、たとえ上手くいかなくても、相手は傷つかないで済むし、自分も立ち直れる。
 今、十二年も付き合っている女友だちF.H.とは、彼女は怒るかもしれないが、最初の七年間はやはり恋愛ごっこだったような気がする。恋愛ごっこだけに、如何に美しい別れをするか、その覚悟だけ胸に秘めて付き合っていたように思う。
 ところが五年前から、これもF.H.は怒るかもしれないが、彼女と初恋の人T.T.がオーバーラップし出してきたのである。F.H.を愛することは、叶わなかった初恋の人T.T.の愛も同時に成就できるような気がしてきているのだ。それは錯覚なのかも知れないし、本気で愛し始めている証拠なのかも知れない。
 私は恋愛ごっこをしているときも、心の何処かでいつも誰かと比較し、恋愛ごっこがごっこ以上には発展せず、最終的に終焉しても、初恋の人T.T.への愛がいつも私の心の中にいて、結局はその中に逃避してしまっていた。
 最近、今一番大事にしている女友だちF.H.と初恋の人T.T.は殆ど同化してしまっている。F.H.に遭ってから十二年も掛けてやっと初恋の人T.T.を、忘れることができるという兆候なのであろうか。

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