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ヒカレものの呟き
何とも、不思議な力を持った詩である
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作成日時 : 2009/01/07 20:57
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昨日今日の新聞のコラムを幾つか読んでいて、丑年という表現がたびたび出現してきて、私は次第に自分の中に今年が丑年だという実感が湧いてきた。去年の暮れに年賀状を作成した2、3日はそれなりに覚えていたが、それ以後はすっかり忘れていた。
門松は冥土の旅の一里塚ではないが、私たちの歳になってくると、今年が干支で何年かということよりも、日本人男性の平均年齢から自分の歳を差し引くと、あと何年しか残されていないという何とも情けないカウントダウンをすぐおこなってしまう。
さすがに、最近は余りにも自分の縮み志向に嫌気がさしてきて、しきりに反省しながら、さらばとて、自分を奮い立たせ、勝手に終着点を定めずに、やりたいことを自分の意思でじっくり、やっていこうという気にもなってきている。
私は今まで、正月休みなど長い連休が始まると、さしあたって、これと言ってやることもなく、特に連休明けに大事な商談を抱えているときなどには、休日が少なくなるにつれて、憂鬱の度合いが深まるばかりであった。そんなときには、私はよく、自分の机に向かって人知れず、高村光太郎の「道程」という詩集を読むことが多かった。
私が所蔵している「改訂版道程」の詩集には、高村光太郎が明治43年から、大正15年までに作った詩60篇が収められていて、その中で私が好んで読む詩は、すべて大正2年に作られた「山」「冬の詩」「牛」「僕等」「道程」という五篇の詩である。この五編を読み終わるとなぜか、思わず知らず昨日までに積み重なってきたメランコリックな気分がどこかに消え去って、今年も頑張ろうという気になってくるのである。
この五編の詩は高村光太郎の30代前半に作った詩で、世の中や自然に対して挑戦状を叩きつけるような確固たる意志が込められた詩であり、草野心平氏が未熟な詩だと評する詩「道程」の冒頭の言葉である<僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる>は、自分は何処まで行っても自分で、しかもそれは強い個性を持った自分であるという、言わば独立宣言のようなものだと、私は受け取っている。
そして、長詩「牛」の主人公は、やはり高村光太郎自身であり、自分はどんな状況になっても一人ぼっちで、誰かが声を掛けてくれるとか、一歩ずつだが確実に進んでいくことに誰も拍手してくれる訳でもなく、だからといって悲観することもなく、のんびり落ち着いて、自分の生きるスタイルを崩さず、孤独をちゃんと知り抜いて歩いていく、― それが高村光太郎自身が思い描いた理想の生き方であり、ゆるぎなく持ち続けた信念なのであろう。
<牛はのろのろと歩く、やっぱり牛はのろのろと歩く、そしてやっぱり牛はのろのろと歩く、それでもやっぱり牛はのろのろと歩く、そしてやっぱり牛はのろのろと歩く、それでもやっぱり牛はのろのろと歩く、牛はのろのろと歩く、牛は大地をふみしめて歩く、牛は平凡な大地を歩く>、こうしたリフレインの間に挿入された幾つかの言葉を、自分なりにしっかり噛みしめて読んでいくと、牛の歩みは遅そうだが、牛の【真面目さ、頑固さ、優しさ、確かさ】が次第に強固な意志を持って胸に迫ってきて、自分もこれからの人生、しっかり生きてみようという気概を持たせてくれているようにも思えてくる。
「牛」という詩は、何とも、不思議な力を持った詩である。
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はって行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は跡へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは日本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の地震を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み食ひ込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
ぢっと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたへる
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力ぢゃない
牛にとっての当然だ
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならないときしか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時はきれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えている草を食ふ
そして大きな体を肥す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
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