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1月4日の午前中に、意外な二人の人から電話をもらった。つい最近まで、私と同じ会社で働いていた人たちで、今は私と同じように定年でRetireした人たちであった。 私がサラリーマン現役時代、一口では言い表せないほどにお世話になったS氏が、去年の12月30日の午前2時32分に亡くなり、1月4日の午後6時からお通夜で、告別式は5日の午後2時からだという連絡であった。 私は信じられなかった。 今年もいつも通り、年賀状をもらっているのだ。S氏は会社で15年間、私の直属の上司であった。おそらく、S氏が直属の上司でなければ、私は33年間も同じ会社でサラリーマンを続けてこれなかったであろう。続けてこられたのは、ひとえにS氏のお陰だと言っていい。 私はお通夜にも出席しようと思って、松葉杖なしで自宅の前を少し歩いてみたが、まだアキレス腱断裂の後遺症が残っていて、どうしても松葉杖が手離せない。ただただ、落ち込むばかりである。 考えてみれば、5日の日は整形外科の治療予定日で、専用装具の調整板が一枚はずしてもらえる日である。そのあとであれば、松葉杖がなくても歩けるようになるかも知れないと思い、5日の診療開始時間の9時を待ちかねて、整形外科医院に出掛けていった。診察が終わり、病院から駐車場までの100mほどを松葉杖なしで歩いてみた。何とか、大丈夫そうである。私はほっと胸を撫で下ろしていた。 せっかちな私には、4日から5日の一日の時間は、ものすごく長く感じられた。S氏が上司であった15年が次々に思い出されて、なかなか寝付かれなかったのである。 私とS氏は長い間、いつも堂々と意見交換をして、客先のどういう製品を受注すべきか、方向性を定めてきた。朝、出勤するとなかなか意見が合わず、大声で怒鳴りあったことも一度や二度ではなく、そのすざましさに、もうすでに事務所に出勤してきた数人の人たちが、次々とこっそり事務所から立ち去って、気づいてみると事務所には私とS氏だけだったこともある。かと言って、まず、そうしたことで気まずくなることはなかった。ともに、会社を思えばこそという気持だけは、共有できていたからである。 S氏が愛知県豊明市にある保健衛生大学病院に入院していたとき、ある自動車部品のコストダウンのために、鋳物製から板金製にするための図面がどうしても完成できず、土曜日と日曜日の2日間、病室に詰め掛けて、S氏のアドバイスを受けて、図面を完成させたこともあった。 そして、別の年のことである。年明け早々に客先に見積書を提出しなければならない見積書があって、工程数とか金型費とかの見積に自信が持てず、私は正月3日に、愛知県東浦町にあったS氏の自宅に押しかけていったことがある。 そのとき、もうすでに奥様は肝臓が悪くて横になっておられたが、私はその奥様の部屋を通り過ぎて、一番奥のドラフターのあるS氏の部屋に導かれて、S氏が自ら、コーヒーを入れてくれたことを、つい、この前のように思い出す。そのとき、私の作成した見積書をじっと見ていて、おもむろに私に向かって言った。もう君は充分に一人前で、これからは自分の判断で自信を持って見積書を提出して構わないからと言われたのである。出されたコーヒーの味が苦かったのか、やっと認めてもらえたのが嬉しかったのか、今はもう、思い出す手だてはないが、天にも上る心地がしたことだけは、はっきり覚えている。 S氏は常務を引退してから、しばらく顧問として、週2日ほど出勤されていたが、それも辞されることになった最後の日に、小声で私に向かって言った。― 「私の精神を受け継いだのは、結局、君だけだったかも知れないね。」 ― 私には、何にもましての褒め言葉であった。 だが、とうとう、私はあなたが残した傑作にはなり得なかった。 せめて今日は、昔の肩書きで呼ばせてください。 「S常務、あなたの期待を裏切って、本当にごめんなさい。」 喪主である長男の方の話によれば、S氏は今年83歳になるということである。去年の1月、病院で肺がんが発見されたが、80歳まで生きられたことに満足していて、告知されてからも穏やかな日々であったという。その話を聞いていると、私は仕事のNow Howだけでなく、最後に死に方のNow Howをも身を持って無言で教えてくれているような気がしていた。 私はふと、この自分のブログに、一昨年2007年の5月に、S氏に関して<発想の転換 >というタイトルで書き込んだことがあるのを思い出した。私は夜中に起き出して、改めてそのブログの記事を読んでみた。 ブログの記事は次のようである。 【私は愛知県大府市にある会社に入社して、10年目を迎えようとしていた頃、新しい工場が愛知県半田市に建った。 私の担当する製品を主力に生産する工場であったため、中途入社でありながら、新工場に赴任するに当たり、製造部門を除いた全ての管理部門を統括するようにと、私は新工場の工場長であるS氏から言い渡された。 新工場の工場長 S氏は、本社の常務取締役とを兼務しており、常駐という訳にもいかず、製造部門のデリバリーも含めて日常のあらゆる指示は、S氏の意向に従い、2年後に新工場長が赴任してくるまで、係長の身分ではあったが、私が出していた。 おそらく、S氏にとっては私が余りにも頼りなく映ったのであろうが、私が新工場赴任したのをさかいに、私はその S氏によって、サラリーマンの心得を手取り足取り、気持も体もボロボロになるほどに厳しく教え込まれた。 その中でも、特に厳しく教え込まれたのは、仕事に対する誠実さとディスクロージャーは言うまでもなく、「徹底したコスト管理」と私の営業担当としての「確かな予見に基づくデジジョンメーキングの素早さ」である。 「確かな予見」とは、客先の新規の商品情報を素早く掴み、世間に受け入れられる商品かどうかを一刻も早く見極めることである。将来伸びる商品だと見極めたら、設備人員など受け入れ体制をライバル会社よりもいち早く整え、Timely に決断しろということである。 私は新しい商品を手掛けるときは、必ず本社に出向き、新しい工場の工場長であり、本社の常務取締役である S氏に、新しい商品に挑戦しようとする自分の考えの根拠を説明し、了承されるやいなや、私はがむしゃらに仕事を取りにいったものである。S氏は私が説明した根拠に納得すると、私の仕事のやり易いように、社長はじめ社内的な調整をしてくれ、私はそのお陰で後顧の憂いなく、自分の考えを実行でき、かなりの確率で客先から受注を獲得できたのである。 私とS氏のコンビは、S氏が常務取締役の停年である65歳になるまでの15年間続いた。その15年間では、私は自分の客先の売上を一度も落とすことなく、ピークで20倍まで伸ばすことができた。 S氏は私より17歳年上であったが、世の中がどのように変化しようと守り抜かなければならないことと、世の中の変化に沿って自らを変化させなければならないことをきっちり分けて考える人であった。私には真似のできない素早い発想の転換を、こともなげにできる柔軟性を S氏は持っていた。 守り抜かなければならないことはやはり、「徹底したコスト管理」であり、変化させなければならないことは、「コストの考え方」であった。 1960年代後半は高度成長期であり、合理化といえば生産の効率化であり、5人の組み作業で生産して、1時間100個作っていた部品を何とか1時間で110個できないかと工夫するのが合理化であった。そのためにはある程度、設備投資も致し方ないという考え方である。高度成長期で生産数が増えれば、設備償却も自ずと解消していく。 ところが成長が横ばい時代に入ると今度の合理化の考え方は省人化に移行していく。今度は、5人の組み作業で生産して、1時間100個作っていた部品を、何とか4人で1時間100個できないかどうかを考えるのである。高度成長期から安定成長期に入ったのであれば、110個は要らない。10個は余分な在庫となってしまうからである。 私が最後に経験した低成長期における合理化は、100個作るための対費用効果を徹底的に考えることであった。人件費(Man Rate)は極力下げたくない。すると最適な設備は何か、効率的な生産場所は何処か、場合によっては減価償却の済んだ設備や遊休設備を社内で専用設備に転用変更できないか、そうしたことを S氏から徹底的に考えさせられた。 私のサラリーマン時代は苦しいことも多かったが、それ以上に楽しいこと、嬉しいことも多かった。それは私に S氏というよき指導者がいたからである。】 |
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